ふたりの世界、ふたつの世界

悪戯されたのは誰?

ただのおもしろ半分のつもりだった。
「Trick or Treat!」と呼びかけて、お菓子なんて持っていないだろうから悪戯するのだ。すると静くんは驚いて、やめろと言いつつもまんざらでもない顔をする。
でもその予定は、驚くべきハプニングによって崩された。
ポンというコミカルな音が室内に響く。

「……は?」
「あ?」

ソファーの上で静くんの膝に手を載せ、覗き込んだ体勢のまま固まる。次いで口をあんぐりと開けた。
だって、だって!!

「静くん?」
「え、あ? ん、……だよな」

白い煙に包まれたかと思うと、同じ場所に現れた男。彼は静くんに似ていた。むしろ本人そのものと言えた。だけど年齢が違う。静くんがあと十年か二十年したらこういう素敵な中年になるんだろうなって思わせる外見をしている。

「え、静くんのお父さん……じゃないですよね」
「おう」

違うのはわかっていた。静くんのお父さんは、物静かで寡黙な人だ。断じてこんな色気ダダ漏れ中年ではない。
男がくちびるの端を上げて笑うと、うっすらとほうれい線が浮かんだ。
トレードマークの金髪は、小豆色に変わっている。首元には蝶ネクタイではなく緩んだネクタイ。第3ボタンまで外されたワイシャツから鎖骨が見え隠れしていた。
それは年を取った静くんに他ならない。

「し、静くん?」
「さっきから何度も呼ばなくても俺は逃げねえよ」

次いですくい上げられるように顎を長い指先が持ち上げ、反対の手が腰にまわる。彼は私の頬を触り、くちびるをふにふにした。
されるがままになっていると、不意に腰を支えていた腕がお尻をなでる。

「ん、の尻だな」

触るだけならまだしも、セクハラ親父のようにわきわきと揉みしだく。
こんな事、静くん以外の人にされたら問答無用で張り倒すし、静くんだったらやり返す。
でも静くんであって静くんでないような彼への対応は思いつかなかった。
しかも一見雑なのに、妙に力加減と触り方が上手い。というより私がどう触られたら気持ちがいいのか知っている手つきだ。

「……っ、やっ」

瞼を強く閉じて顔を背ける。でも逃げられない。
やんわり顎を固定されて、くちびるに息がかかった。
期待と困惑に薄く目を開くと、妖艶に微笑む男と目が合う。

「どうやら、若いときのみたいだな。反応が初々しいのもたまにはいいな」

言って手を離す。
その時彼が浮かべた微笑みがいつもの静くんと同じで、安堵に肩の力が抜けた。
彼は間違いなく私の静くんだ。
少し涙ぐんで見つめると、頭をくしゃりと撫でられる。そのまま大人しい飼い猫のごとく愛撫され、ついでに顎の下まで触られた。
さすがに抗議する。私は猫じゃない。

「……何?」
「ん……可愛いなと思ってた」
「可愛いって……」

頭をぽんと叩かれた。

「見たところ俺のより、十年、いや十五年くらい若いみたいだな」
「うん、静くん、さん? たぶんそれくらいだと思うけど。今いくつなの」
「くんでいいよ。今年で四十一だ」
「へぇ」

改めてマジマジと見る。
髪の色もさることながら、少し下がった目尻や緩く弧を描く口元が年齢に伴った落ち着きを感じさせた。
しかし一番違うのは雰囲気だ。不安定な危うさが薄れ、大人の男の魅力に置き換わっている。
そして左手の薬指にはシルバーの指輪。
それを確認した途端、口元がだらしなく緩みニマニマしたまま戻らなくなった。

「誰と結婚したか聞きたいか?」
「私以外とも可能性があったって言いたいの?」

そうなら今ここで殺す。
殺気が伝わったのか、おどけた仕草で肩を竦める静くん。次いで私の肩を抱き優しく抱きしめた。
耳元で囁く低い声音に、背筋がゾクリとする。

「俺が欲しいのはお前だけだから」

腕の中が心地よいけれど、このままでは間違いを犯してしまいそうだ。軽く胸板を押して離れる。
見つめる視線から目をそらして、ソファーの隣に腰掛け直した。
咳払いをして、気持ちを立て直す。

「それで、貴方が未来の静くんだってことは理解しました。でもどうしてこんなことになったの?」
「それは俺も知りたい」

結局二人で考え込むだけで、結論は出なかった。
お茶でも煎れよう声をかけると、彼まで立ち上がりついてくる。

「座っていてもいいよ?」
「あ? いつも手伝えって……あーそういえば子供生まれるまでは結構なんでもやってくれてたよな。俺が言うのも何だけどそういうはあまり良くないよ」
「こ、子供いるの?」
「ああ」

幸せそうに緩んだ横顔に胸が高鳴った。
私と静くんの子供……。
妄想の世界に突入し、くねくねしてしまう。恥ずかしい。
でもそれは油断だった。

「なあ」

背中が壁にぶつかる。
いつの間にか追い詰められ、彼は壁に手をついた体勢で私を見下ろしていた。
和やかな空気は消し飛び、甘い予感が立ちこめる。

「止めて……」
「なんで」
「だって、今の静くんは私の静くんじゃない」

すると腰回りをなで回していた手が止まり、ため息が降り注いだ。
妙に色っぽいそれは、今の静くんには出せない色気に満ちている。すごくエロい。

だろ。俺はだったら揺りかごから墓場まで愛せる自信がある」
「え……ロリコンの上にババコン?」
「なんでそうなるんだよ、ちげえだろ!」

吹き出すと、不満そうな顔をした。
ピンクの空気が霧散しかけた次の瞬間、

「ま、若い頃の締め付け具合に興味があることは確かだけど」

肉食獣の顔で笑う。
軽い口調なのに、いつもの静くんと全然違う。
思わず目を閉じて、

「……あれ?」

聞き慣れた声に開く。
そこには壁ドンの姿勢のまま、状況がわからずオロオロしている彼がいた。
サラサラの金髪で、ちょっと目つきが悪くて、煙草の匂いがする私の静くん。

「……静くん」
「泣いてるのか? ……誰だ、お前を泣かせたヤツ。待ってろ……殺してくるから」

怒りを煮詰め始めた胸に飛び込む。そして思い切り胸板を叩いてやった。

「バカバカバカ−!」
「えー!?」

彼からすれば突然の八つ当たりだと思っただろう。でも背中を撫でてくれた。
その手は不器用で時々力加減を間違えて痛いこともある。

「……でも静くんが好き」
「俺もが好きだ」

情感に満ちた声に、言い返した。

「……嘘つき」
「え?」

いくら私限定って言ったって、揺りかごから墓場まではおかしい。私は胸板をポカポカと殴りつづけた。