気持ちの良い風が頬を撫でる。
その心地よさに、目を閉じたままうっとりした。
しばしその感覚に身をゆだね、次いで目を開く。そこは見渡す限りの草原だった。
瞬きをして、空を見上げる。
どこまでも続く緑、そして太陽が存在しない澄み渡った青空。
その中心に、着物姿のわたし。
「ここは?」
感覚を研ぎ澄ませると、薔薇の芳香がした。花の一輪も見当たらないのに、風に乗って全身に絡みつく。
思わず首を傾げた。
「夢?」
それにしては妙に現実感があるのはどうしてだろう。夢とはもっとふわふわしてとらえどころのないものだと思うけれど。
でも現実ではない。
太陽のない世界と、花の香りだけ存在する草原。
重ねて証拠を見せつけるかのように直後、遠くから鈴の音が聞こえた。目を細めて音を凝視する。
───しゃらん、しゃらん。
耳障り良い鈴。耳を澄ませるとそれをきっかけに、笛の音が混ざる。さらに太鼓。
楽団の音色だった。
さらに二人の踊り手が突然姿を現した。
遠目にも、よくわかる綺麗な黒髪と亜麻色の髪。
「蓮花、菫!!」
茶州で出会った双子の楽士。
蒼遙歌舞団。
叫んだ瞬間、世界が弾けた。
草原が収縮し、青い空が消える。
地面が消え去り落ちた、思った瞬間目が覚めた。
「待って!」
落下感に身体が痙攣した。
粘つく寝汗を拭って身体を折り曲げる。
「……夢?」
一日目はそう思った。
けれどそれが何日も続くと、ただの夢とは思えなくなってくる。
しかも舞い踊る双子は毎夜夢の世界に現れ、少しづつ近づいた。
『夢を渡る異能者』
三度目の夜、揚羽の言葉を思い出した。
心臓が早鐘のごとく鳴った。
異能はこちらの世界でも有効なのだろうか?
祖母がこちらに渡り、わたしは行って帰ってきた……あるのかもしれない。
ならば、彩雲国へ戻れる?
相反する感情が心をかき乱し、煩悶した。
家族と、仲間と、二度と会えないなんて嫌。
だけど、濃紺の瞳が過ぎた。
家族と会えて嬉しかった。劇団の仲間と再び演劇ができる。でも静蘭が恋しい。
天秤にのせるものが重すぎて、それ自体が壊れてしまった。
大きなため息をついて、ベットから起き上がる。
「ただの夢じゃなかったら」
窓を開けると、太陽が輝いていた。
悩んで、落ち込んで、立ち直って。
決意する。
かくして七日目の夜が来た。
覚悟を決め草原の中心で佇んでいると、突然耳元で鈴が鳴った。
「っ!?」
叫びそうになるのを堪える。
胸元に手を当てて落ち着こうとすると、着物の袂を両側から引かれた。
「ひゃっ!?」
今度は堪えきれずに悲鳴をあげる。
そして視線を下げて両方の袂を掴む存在と、
「「捕まえた!」」
目が合った。
くりくりした二対の瞳。
「蓮花、菫?」
呼ぶと花のかんばせが綻んだ。次いで可憐な笑い声が草原を揺らす。美少女と夢の世界、幻想的だ。
「どうして二人がここにいるの?」
「それはもちろん」
「お姉ちゃんを探していたからに」
「決まっておるのう」
顔を上げる。
双子のものではない、艶のある美声に驚愕した。
いや、考えてみればいてしかるべき人物だったかもしれない。
目前に現れた絶世の美女。視界を緑の黒髪が豊かに流れる。流麗な瞳が弧を描き、赤いくちびるが微笑んだ。
見知った人の出現に、名前を呼ぶ。
「薔薇姫!?」
「久しいの」
優美に微笑み、滑るように近づいた。
次いで白魚の手が頭を撫でる。
慈愛の微笑み。
こみ上げた涙にくちびるを噛んで、泣くのを我慢した。
「辛い思いをさせたな」
「……貴方の……せいじゃないから」
「いや、妾にも責がある」
だから、と美女は真剣な表情をした。
双子が袂を掴む力が強くなる。
「そなたに詫びをするためにそこの二人に手伝ってもらった」
それを受けて蓮花が胸を張った。
「大変だったんだから」
「「ねーっ」」
二人見つめ合って微笑み合う。
次いで菫が控えめに見上げた。
「違う世界で人を探したのなんて初めてだったもの」
やはり、と思った。
これはただの夢ではない。
薔薇姫へ視線を移すと、静かに頷いた。
「双子は夢見という異能を持っておる。しかもかつてないほど強い。それを借りてそなたを探した。とはいえ目印と道がなければ難しかっただろうがの」
指さしたのはわたしの胸元。
示されるまま着物の袷に手をやると、二枚の布が挟まれていた。祖母の着物と冬姫牡丹の刺繍。
「そう……ですか」
視線を落とす。胸に染み渡る甘くて苦い味。
「うむ、そなたの想い。そして静蘭の愛情が詰まっておる。世界を繋ぐにこれ以上の目印はあるまい」
「あ、愛情ですか」
「赤くなってかわゆいのう」
カラカラと笑い、表情を引き締めた。
途端に空気が変わる。草原を風が掛けた。わたしも慌てて頬の熱を冷ます。
「して、どうしたい」
喉が鳴った。
蓮花と菫が袖を引く力がさらに強くなる。
彼女は一度目を閉じ、柳眉を寄せた。勢いよく目を開き、わたしを正面から見据える。
「どちらの世界を選ぶ?」
言葉と共に肩の力が抜ける。
不思議そうな顔をした三人に構わず、口元をほころばせた。
存分に迷う時間があった。
だから答えは決まっている。
それは、
「どちらも、です」
顔を上げる。
すると薔薇姫が着物で口元を覆った。
だけど、言い切る。
「静蘭を異性として誰より愛しています。だけど生まれた世界も、家族も同じくらい愛してる。彩雲国へは戻ります。でもそれは別離じゃない。必ず二つの世界を行き来する手段を見つけてみせます」
風がぴたりと止んだ。草の鳴る音すらなりを潜めて、威圧感が増した美女を包み込む。
唾を飲み込んで、でも目は逸らさない。
袂で口元を覆った薔薇姫の表情は見えない。彼女はしばし沈黙をし、
「ほほほほほほほほ」
突然大声で笑った。
「ば、薔薇姫!?」
「これが笑わずにいられるか。まことそなたは面白い」
袂が下がり、赤いくちびるがニヤリと笑む。
「は蒼遙姫とも冬姫とも違う。わかっていたつもりだったがのう」
「「お姉ちゃん、帰ってくるんだよね?」」
双子の問いかけに、頷く。
「「わーい」」
目の前でハイタッチをする二人に、薔薇姫と目を見交わしてふきだす。
「だがな、妾がしてやれるのはをあちらへ連れて行くことのみじゃ。そこから先してやれることはない。わかっておろうな?」
「はい」
「ではこれを使うが良い」
両手を腰の高さまで持ち上げた、次の瞬間一振りの剣が現れた。そして目前に差し出される。
まじまじと見てそれの正体に気づいた。
「莫耶!?」
「そうじゃ」
差し出された瞬間、空が歪んだ。
しゃらり、しゃらりと鈴の音が響いて遠くなる。
「道筋はこの子らがつけてくれた」
袂を掴んでいた腕が離れた。
薔薇姫の迫力ある美貌が、ぐぃと迫って莫耶が腕に握りこまされる。
「莫耶は女の性を持っておる。本来そなたには扱いづらいものじゃ。だが莫耶と干将は引かれ合う。そして女の性を持つ故に、今回は何かと都合が良い。よいか、刺繍は目印、繋ぐのが双子、切り裂くのが剣じゃ。ゆめゆめ忘れるな」
柔らかい手が頬を撫でた。
離れていく美貌の人。
にこりと、笑ったのが最後に見えた。
目を開けるとカーテンから差し込む朝日が映った。
まぶしさに目を細めて、起き上がる。
次いで頭に固いものがぶつかる。頭を撫でながらそれをたぐり寄せ、
「夢……じゃない」
莫耶の宝剣。
道は……繋がった。
世界を自由に行き来する方法を見つける。
難しく、可能性は低い。ましては異能を持たないこの身。だけど必ず成し遂げる。
祖母の家を見上げ、感慨に耽った。
場所の指定をされたわけではないが、ここしかないと思う。祖母がこちらへ来た場所。私が再び渡ることで、細い糸で繋がれた道がより太く補強される。
それは勝手な想像にすぎない。
だけどそうすべきだと直感した。
祖父が亡くなった後行われた改装工事ですっかり外見が変わった家。今は親類が住んでいるそこに、どう入るべきか迷う。
声を掛ければいれてもらえるだろうが、色々とやっかいだ。しかしそれは杞憂だった。
人の気配がしない。
倫理観を追い払って、庭に入り込んだ。
準備を整え、莫耶を荷物から取り出し、構える。
目をつぶり、気配を探ると───鈴の音が聞こえた。
息を吸い込み、研ぎすませる。
「はぁっ!」
気合いと共に一閃。傍目に見れば空振りしたように見えたはず。
だけど剣は鈴の音が聞こえた一点を捕らえ、空間を切り裂いた。
途端にありふれた庭から異次元が現れる。空間の裂け目から白い光が溢れ、身体を包み込む。だが完全ではない、異能を持たないせいか、蒼遙姫がいなくなったから。あるいは私が祖母ではないからか。光は包み込むだけで世界を越えようとしない。
でも焦りは感じなかった。
光が、わたしの覚悟を待っているように感じたから。
因果。
祖母が彩雲国へ置いてきたもの。
再びあの地へ足を踏み入れれば、また璃桜が狂うかもしれない。わたしのせいで他の誰かを傷つけるかもしれない。物語の予定調和が壊れる可能性は高かった。
親の因果が子に報いなど、馬鹿馬鹿しい。だが既にそれは祖母ではなくわたしが背負うべきもの。
ならば全て含めて、受け継ぐと決めた。
今、この時二つの世界と契約をする。
「我が名は冬姫、帰還する!」
流れが変わったことを肌で感じる。
瞬間、ふわりと身体が浮いた。
嵐に巻き込まれた芥のごとく攫われる。
だが今度こそ目を見開いて、進むべき道を見た。
完