秀麗は華美な意匠のほどこされた窓に肩肘をつき、深くため息をついた。
後宮に来てからの矢の様に過ぎ去った日々に思いを馳せる。自分はもちろん静蘭の傷も大方癒えた。もうすぐ元通りの生活に戻る事になるだろう、だから潮時まであと少し。ずっと劉輝のそばにいることは不可能だから、貴妃ごっこはもうおしまい。
秀麗は自分に言い聞かせる様にひとりごちた。
時折劉輝のさみしそうな顔が頭に過ることはあったけど、後宮から去ってからのことを心配していなかった。
あの話を聞くまでは。
きみの優しさが日常になっていたこと
「が女官を辞めた、ですって!?」
それは寝耳に水。
「う、うむ」
瞬間、劉輝の表情が捨てられた子供の様に陰った。
――心配していなかった。
さえ傍にいれば劉輝は大丈夫だと思っていたから。
早々ないと思うが、もしもが劉輝の妃になると言ったら……きっと秀麗は双手を挙げて賛成しただろう。
けれどはいなくなってしまった。
だから秀麗は少しだけ戸惑いながら、しかし決然とその言葉を告げる。
「街に帰るわ」
「そうか」
秀麗はその後劉輝に連れられ庭院に下り、剪定がどうのという話を延々と聞かされることとなった。
「というわけ」
「それは、それは」
家人の為にりんごの皮を剥きながら先ほどの出来事を話す。静蘭は「」と聞いた瞬間表情を陰らせ、しかし秀麗がそれに気づくより早く微笑みを貼付けた。
「静蘭はがどこへ行ったか知らない? 劉輝ったら何も教えてくれないんだもの」
「……さあ、正確なところはわかりません。 しかしおそらくは……」
一瞬口ごもり、「茶州」と告げたくちびるは暗い闇を放っていて、秀麗は口の中で数回「茶州……」とつぶいた後、あわてて話題を転換した。
「ほ、ほら静蘭! 布団にりんごの汁が垂れかかってるわよ!」
刺繍の入った手ぬぐいを差し出す。
「申し訳ありません。 ……ずいぶん個性的な刺繍ですね」
静蘭は歪んだ
冬姫牡丹の刺繍に首を傾げる。それは形も縫い目もガタガタで、一級品に囲まれたこの後宮には不似合いな代物だった。
しかし冷静な静蘭とは反対に秀麗は広げられた布に瞠目する。
「キャー! 間違えて使っちゃった!? 折角から貰ったのにー!」
「から……ですか?」
「ええ、前に教えてあげた時のものなのよ」
わずかに頬を染め満面の笑みを浮かべた秀麗。普段の静蘭ならそれを見逃さず、愛しげに微笑み返した事だろう。
しかし静蘭はそれに気づかず、混乱と困惑と愛しさと憎らしさをない交ぜにした表情でじっと刺繍を見つめていた。
静蘭の表情の急変に秀麗が心配そうに眉根を寄せる。
「そんなに気に入ったなら、静蘭にあげるわよ? ただし大事にしてね、私の宝物なんだから」
「お、お嬢様……」
困惑する静蘭に、「本当は人から貰ったものをあげたりしないんだからね! 静蘭だから特別よ?」と手ぬぐいを握らせた。
その瞬間静蘭は痛みに耐えるように目元をわずかに引きつらせ、少し赤くなった顔を隠すように掌で顔を覆い刺繍を握りしめた。
それは切実な祈りのようで。
風が吹いて、感じたのは新緑の息吹。
初夏が近づいていた。
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秀麗視点でした。
『同じ世界など見えなくて良いのです。』でさんが縫った刺繍が静蘭の手に渡ったというお話。