普通の恋愛
大団円直前の第四話【季節は夏】
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蒸し暑さにクーラーの設定温度を下げながら呟いた。
「あいつ、遅くないか?」
「今日は大学の何かで遅くなるって言ってました!」
激しく音漏れするヘッドフォンをずらして振り向く。
彼は原稿に集中すると周りが見えなくなる。だが話題が姉に及んだ時のみ反応が早い。真太と中井はエイジが軽いシスコンであることに薄々気がついていた。実際姉弟仲は良いようだ。時折意味不明の言語で会話している。他人には理解できない絆があるらしかった。
迎えに行くのは忘れるくせに、と真太は嘆息した。
「あー今日はカップラーメンか」
「朝、なにか作ってましたよ」
「そういえば台所からいい匂いがするね」
中井は言って、台所へ向かう。
「お、カレーだ。 ちゃんは気がつくし、いいお嫁さんになりそうだよねー」
と夢見る表情で呟く。
彼は惚れっぽいのだ。
「けっ、性格は最悪ですけどね」
「喧嘩してるのなんて福田くんくらいだよ」
「そうっスか」
中井の言う通りだった。
はお嬢っぽい外見を裏切らず、誰に対してでも丁寧だ───俺を除いて。
胸くそ悪くなって、財布片手に玄関に向かう。
「飲み物買って来る。 新妻くんと中井さんは何がいいッスかー」
「ズキューン!」
「お茶で」
「へいへい」
既に原稿に没入してしまったエイジと、もうカレーを食べ始めている中井。胸中から湧き出した苛立ちを押さえて玄関から出た。
次いでコンビニへの近道、小さな公園に足を踏み入れる。
「……っ!」
「いいじゃん、俺と付き合ってよ。 飲み会でもずっと俺の方見てたじゃん」
「み、見てませ……」
「またまた」
そして聞き覚えのある声に振り向く。
人目につきにくい植え込み近くのベンチ。
そこに彼女と見知らぬ男。
反射的に声をかけていた。
「おい?」
「福田さん!!」
すると男の腕を振りほどいて、俺の腕の中に飛び込むように駆けてきた。
肩が小刻みに震えている。
思わず抱きしめた。
「なんだお前?」
軽薄そうな男が詰め寄る。
「お前こそなんだ? 人の女に手を出すんじゃねえよ」
言葉は自然と口から飛び出していた。
「は? ナニちゃん彼氏いないって言ってたじゃん」
「そ、そんなこと言ってません! 福田さんは……か、彼氏です!!」
「ちっ」
手を伸ばしかけた男は、真太の強烈なひと睨みでひっこめた。
次いで舌打ちをして立ち去る。
生暖かい風が梢を揺らした。
彼女が震えを無理矢理押さえつけようとしているのを感じる。しかしてゆっくりと顔を上げた。
瞬間、心のどこかが動くのを感じる。
「あ、ありが……」
「なにがあった?」
肩を掴んだ腕は放さなかった。
も離れようとしない。
「友達から飲み会に誘われて……行ったらあの人がしつこくって……でもどうしたらいいのか……」
「はっきり断ればいいだろうが! いつも俺に対してはタンカ切りまくってるくせに何だよ!!」
何に対して怒っているのか。
気がつけば彼女が帰るのを毎日待つようになった。そんな自分への苛立ち。
男との問答で生まれた嫉妬。だけど俺が彼氏と言った時、否定しなかった。
潤んだ瞳に引き寄せられる。
「できるわけないじゃないですか。 だって怖かったんです。 すごく怖かったんです。 どうしろっていうんですか……あの人と福田さんが違うのなんて当たり前じゃないですか。 偶然でも来てくれて嬉しかったのに酷いです」
大粒の涙が流れ落ちる。
それは留まる事を知らず、溢れ出した。
心と呼応して、腕に力が入る。
「ふ、福田さん?」
抱きしめると柔らかい肌の匂いがした。無垢な赤ん坊のように純粋で純真で、でもどこかひねくれている。気がついていた。こっちが見てるときは絶対に視線を合わそうとしないくせに、背中からじっと見つめる瞳。
「さっき彼氏だって言ったよな」
「それは流れで……」
「ふーん?」
「だから……」
腕の力を緩める。
気がつけば絡み合う熱い視線。
小さく笑った。
「お前みたいなのツンデレって言うんだ」
「何言ってるんですか! 福田さんだって似た様なものです。 はじめに会ったときから思ってました。 福田さんの視線はイヤラシいと思います」
「……いい度胸だ。 本当にイヤラシくしてやる」
「ちょ、ちょっと」
もう一度抱きしめた。
そして耳元で囁く。
「好きだ」
息を飲む音が聞こえた。
「……私も……す、すきで……す」
ドクドクと高鳴る心臓の音が聞こえる。
柔らかい身体も、いじっぱりで簡単に素直になれない性格も。全部可愛いと思った。
「いいよな」
「……なにが?」
小首を傾げた。
それがまた可愛すぎたので、くちびるを塞いだ。
木々が梢を揺らす音も、都会の喧騒も、この時だけは全て消え去ってしまった。