「アメンボあかいな、ア、イ、ウ、エ、オ………………
…………わい、わい、わっしょい。ワ、ヰ、ウ、ヱ、ヲ。植木屋、井戸換え、お祭りだ」
腹部を押さえていた腕を下ろし、手拭で汗を拭く。竹筒の水は生ぬるい。
以前は毎日が練習と公演の連続だった。
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、一つのものを作り上げていく作業はとても楽しかった。
劇団の仲間たちの顔が浮かんでは消える。
(…もう会えないのかな)
想った。でもまだ、諦めない。
この廃寺で稽古を始めて数週間が過ぎた。
頻度は数日に一回というところか。本当ならば毎日でもしたいが、邸の人間と香鈴をごまかして出て来ている身としてはそういうわけにもいかない。
それに治安が回復し始めたとはいえ、女の一人歩きは危ない。だから外に出る時は大抵男装をしている。髪を一つにまとめ、男物の服を着れば立派な少年だ。あと数年もすれば体型も変わり、無理も出てくるだろうが、今はその必要もない。
そんなことを平たくなった胸を眺めながら思った。
……こっちでも成長するといいけど。
そして胡座をかく。
次いで今にも破れそうな台本を取り出し、膝の上に乗せた。そこにはアンダーラインに注意書き、事細かな指示が山のようにある。これはわたしがオーディションに参加するはずだった映画の台本だ。
捨てられない。捨てない。
見上げると外はすでに逢魔が時。空は血のように赤く染まっていた。
□□□
聞こえた雨音に顔を上げた。いつのまにやら周囲は薄暗い。あまり遅くなると香鈴が心配する。しかし荷物をまとめている最中、遠雷が聞こえた。次いで落雷音と共に凄い速さで迫り来る雷雨。
「待つしかないな……」
肩を落とし、寺内に引き返した。
雷雨が激しく屋根を叩く。
一刻ほど過ぎた。状況に変化はない。
暇だ。
しかしあくびをかみ殺そうとした瞬間、境内が激しい雷鳴に震撼した。衝撃に建物が震え、落雷音がびりびりと身体の芯を突き抜ける。
雷光が真昼のように輝いた。
「うひゃぁ!」
衝撃に思わず目を閉じた。
そして聞こえた声に、
「おお、驚いた」
瞳を開ける。
するとそこには妙齢の美女が佇んでいた。艶やかで豊かな黒髪、芸術的に整った顔、強い意志を感じさせる瞳。
どこかで会った事があるような、不思議な感覚が身体を包んだ。
首を捻る。でも思い出せない。
「どうした娘、妾の顔になにかついておるか?」
「え……あ、いえ……いつ入ってきたんですか……あ、あれ? なんで?」
「うむ。 この雷のおかげだの。 好都合じゃ」
「は?」
話が噛み合わない。しかしどこか覚えがある。口の端から言葉が溢れた。
「……薔薇姫……?」
「うむ、久しいの」
彼女は大輪の花のように微笑んだ。
って……久しい?
「どこかでお会いしたことありましたか?」
「そなたとは、ない。 しかし冬姫は妾の旧知だからの」
瞬間、
『見つけた……わたしの冬姫……』
冷たい手で心臓を鷲掴みにされた気がした。
背筋がぞわりと泡立ち全身が小刻みに震え始める。
「すまぬ」
言葉と共に花の香りが包み込む。母に抱きしめられているような暖かな安らぎ。
いつの間にか震えは止まっていた。
「これほど影響してしまうとは……」
薔薇姫はわたしを抱きしめたまま、難しい顔で考え込む。
そして思わず問いかけたわたしに彼女は一瞬の躊躇の後、告げた。
「、妾はそなたがあちらの世界に帰るすべを知っている。 帰りたいか?」