秀麗がこの後宮へやってくるより少し前、狐狸妖怪じじーは言った。
「殿、主上の妾妃になってくれんかのう」
わたしは答えた。
「ヤです」
秀麗が後宮にやってきて、早五日。
逃げ回るのにも限度、というものがある。
別に秀麗が嫌いなわけではないのだ。むしろ好きな部類。しかしそこは自覚したくないドロドロした気持ちが生み出す、苦手意識があった。
だが、そんなのわたしらしくない。
「よおしっ!」
ぱしん!と頬を叩き、気合いを入れた。
「私……私!」
しかし気合いを入れたのもつかの間、秀麗の室前で自害しかねない勢いで泣く少女を見つけた。
「香鈴!?」
ぽろぽろと涙を零す姿に仰天し、駆け寄る。
「どーしたの? ほら、よしよし」
「姉様っ……姉様っ」
抱きしめるとますます泣きじゃくる。
うーん、泣く姿もかわゆい。しかし今はそんな事を言っている場合じゃないだろう。
香鈴を抱きかかえ隣室に運ぶ。そして珠翠様を振り返った。
「珠翠様は、紅貴妃の元に」
「では香鈴のことはお願いしますね」
あなたにお任せする分に問題はないでしょうが、と微笑んだ。
ま、妹だからね。こんな場面と珠翠様が相手でなければウィンクでもしたところだ。
だが今は香鈴を落ち着かせる事が先決。彼女の濡れた瞳を覗き込み、柔らかく問いただした。
「何があったの?」
「紅貴妃様にお茶を……!」
香鈴はえぐえぐと泣きながら、説明する。
「つまり、紅貴妃様にお茶をかけて落ち込んでるってこと?」
再び覗き込むと、濡れた瞳が頷いた。わたしはその言葉に軽くため息をつき、背中をやさしく叩いた。
「紅貴妃様はそんな事で怒るような人じゃないって分かったでしょ? いつまでも泣いていると余計に心配されちゃうじゃない」
「だって……!」
ちょんと、可愛いおでこを小突く。
「香鈴! 姉様の嫌いな言葉は?」
「……だって……です」
「でしょ? わかったら泣き止む、そして一緒に紅貴妃様に謝りにいこうね?」
「……はい」
こくんとうなづき、気丈に目元を拭った。
□□□
「……さて、どうやって王にお会いしようかしらね」
扉を開くと、ため息まじりの声が聞こえた。
「紅貴妃様、失礼致します」
秀麗はあわてて頬杖を止め、姿勢を正す。
「秀麗様、こちらは
珠翠様が意味ありげに、秀麗に視線を送る。しかし秀麗はそれにも気づかず穴があくかと思う程、わたしを見つめた。
「あなた……」
「
「え……ええ。 構いません。 こちらこそよろしくお願いします」
顔を上げて薄く微笑み、目配せをする。すると秀麗は何事もなかったかのように、楚々とした笑顔で答えた。
(いい役者になれるんじゃないの)
そして隣りで再び泣きださんばかりに俯いている香鈴の袂を引く。
「わたくしの妹が粗相をしたそうで、申し訳ありませんでした。 宮中に不慣れな娘のしたこと、寛大なるご措置をいただきとうございます」
「い、妹……!? だったのですか」
「ええ、この姉妹の仲良さは宮中でも有名なんですよ」
珠翠様は美麗な顔に艶(あで)やかな微笑みを浮かべた。
「そうですか。 わたくしは大丈夫です。 香鈴、気にしないでくださいね?」
「紅貴妃様……!」
香鈴は潤んだ瞳で秀麗を見つめた。
(うーん、心酔してるな)
一つ頷き、口を開く。
「ところで、紅貴妃様。 主上の事でお話が……」
秀麗の瞳がきらりと光った。