近くの体温

「お茶が入りました」


 ぼんやりと庭院を見つめていた主上に、花香漂うお茶を渡した。


「うむ……」


 咲き始めの桜が風に舞い、視界を彩る。
 日の光が柔らかに降り注ぎ、彼を金色に染めた。
 目前に迫った新しい時代の到来に、深い安堵と一抹の寂しさを感じる。子離れしていく親の気分に近いのかもしれない。
 彼の横顔はもう、泣いて飴を強請る"お子様"ではなかった。
 わたしはそれがうれしくて、ちょっぴりさみしい。










 府庫の扉が開き、紫の着物が翻る。
 彼は豪奢な紅い着物の少女に向かい、決然と告げた。


「政事を、しよう……」
「――……ありがとう」


 花のかんばせが綻ぶ。それは可愛く、絶対的な影響力を持つ笑顔だった。
 主上は秀麗を抱き寄せ、艶やかな髪を梳き、背中を撫でた。
 その行動に秀麗の頬は熱を帯びて紅く染まる。


 ふむ……。


「……あなた的にあれはアリなの?」
「――ふっ……」


 膝立で物陰からこっそり様子を伺う男女――。
 わたしと静蘭だ。
 怪しい、ものすごく怪しいと自分でも思う。
 わたしとて望んでやっているわけではない。しかし場所取り合戦(お題:主上、秀麗観察会)に引き分けてしまったのだから仕方がない。
 しかも気まずい雰囲気を解消しようと問いかけたのに、静蘭は薄く笑うのみ。
 それどころか何を考えたのか、彼はわたしの肩に手をかけ引き寄せた。
 熱い吐息が耳にかかり、全身の毛穴が開いた。


はいいんですか?」
「――っ!!」


 顎に手をかけられ、薄紫の光彩を持つ瞳に視線を絡めとられる。
 引き込まれ、落ちていく。


 ダメ……! 


 ありったけの理性を振り絞り、逃げた。
 しかしぞろりとした着物に足を取られ転倒する。が、間一髪静蘭に抱きとめられた。


「気づかれますよ」
「――っ!」


 見上げた微笑は真っ黒だった。
 思わず、静蘭の腕を払いのける。
 掴まれた腕が、肩が、腰が。どうしようもなく熱かった。


(あうううううっ! なんでこんなことに!)


 心臓に悪い。
 しかしわたしの内心の葛藤など彼は気にも留めない。何やら考える素振りをした後、口を開いた。
 

「質問に戻ります。 は主上の妾なのか?」


 耳を疑った。
 誰が誰の妾だって?


「……は?」
「男色家の主上も、一人の女人だけは寵愛していると一部で評判になっていましたよ」


 ……そんな噂があったのか。
 確かに主上は即位以来わたし以外の女人を避ける傾向にあったから、疑われるのも仕方がないかもしれない。
 わたしは言葉につまった末、静蘭を見つめた。彼の瞳は深淵で、何を考えているのか理解できなかった。
 しかしわたしが口を開くより早く、


「どうやら、違う様ですね」


 その瞬間、静蘭の表情が安堵したように感じた。


「……嫉妬?」


 こんな妹はいらないとかそんな思案だろうけれど。そう、期待などしてはいけない。うん、いけないんだ。
 案の定静蘭は、人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。


「――そういうのを自意識過剰と言うのですよ」
「左様ですか」


 視線を逸らし、ゆっくりと息を吐き出す。
 李絳攸による勉強会が始まっていた。
 何故か心が急いて、とてもではないがこれ以上この場所に留まることは出来なかった。わたしは投げ捨てるように言う。


「わたしはそろそろ後宮に戻るわ。 護衛(ストーカー)がんばって」
「なにか、含みを感じる言葉ですね」


 その笑顔がやっぱり黒かったとかはもうどうでもいいことで、わたしはその言葉におざなりな返事をし、踵を返した。
 









 足が自然と速まる。
 駆けている最中、誰にも会わなかったのは幸運だった。
 自室に飛び込み、扉を閉じる。


「……顔がいいってずるい……」


 力の入らない身体はベットで崩れ落ちた。


(それだけじゃないって分かってはいるけど……)


 許容できない想いに頭を抱えた。
 硬く握りしめた想いも、彼次第でこんなに簡単にくつがえってしまう。
 枕に顔を埋め、大きく息を吸い込み、吐き出した。