裸足で進む、ゆっくり

「鴛洵様、香鈴からです」


 天には星が煌めき、月は彼の人を照らす。
 目前の茶器を傾けると口内に程よい苦みが広がった。


「そうか」


 菊花の刺繍を眺め、優しく笑う鴛洵様。しかしその笑顔にどこか違和感を感じた。
 何度も口を開こうとし、何も言えないことに気がついた。
 ――わたしに言う権利などない。


 皆には内緒のお茶会。
 後宮に上がった当初はわたしが家の様子、なにより香鈴の話を求めて聞いた。
 あの子がこちらに来てからはもっぱらわたしが鴛洵様に話すことが多い。
 当然ながら『女官』が度々太保と会うわけにはいかないが、男装をしているわたしを見とがめるものは少ない。おそらく鴛洵様の部下だとでも思われているのだろう。
 まっ白な髭を見上げる。
 この世界で唯一の保護者。この人に拾ってもらわなければ、多分死んでいた。 
 現在(いま)ならまだしも、十過ぎの子供があの荒れ果てた貴陽で生き延びられたとは到底思えない。
 よしんば生き延びた所で、食うや食わずの生活を強いられただろう。
 そして切羽詰り、技楼に身売りしていたかもしれない。


 胸中を不安が過ぎった。
 ――わたしは裏切っているのだろうか。
「分かってもらえるはずはない」と異世界から来た自分を告げぬことは罪ではないのか。
「この世界の未来を知っている」告げて止めぬのは悪かもしれない。
 しかしそんな杞憂は、思慮深げな深茶の瞳に吸い込まれてしまう。
 鴛洵様はなにも聞かない。
 なにも言わない。
 わたしは……それに甘え続けていた。
 わたしは……。










 鴛洵様と別れ、自室へ向かう。
 その途中、ふと夜桜が見たくなり寄り道をした。
 ほどいた髪が夜風に舞う。
 暑苦しい外套を脱ぎ捨て、息をついた。
 木の葉がざあっという音を立て、風が頬を撫でる。夜桜が月に照らされ、神々しく輝いた。
 その時、


「こんな時間に外出とは関心しませんね。 しかもそんな格好で」
「……静蘭……」


 肩がびくりと震える。彼は、「あなたは自分が後宮の女官だと言う自覚がないのですか」と軽蔑の笑みを浮かべた。
 その言葉に、瞳に、わたしは目を伏せる。
 ――そんな表情見たくなかった。
 しかし静蘭はそれが気に食わないとばかりに、苛立たしげに腕を取った。


「何故私を避ける!?」


 苛烈な視線が貫く。
 それは剣を合わせた時にも似て、あれ以来避けていた情動が動きかけた。
 しかし、


「あなたには……関係ない!」


 その感情を無理矢理追い払い、閉じ込める。
 これで話は終わるはず、そう思った。
 だがあれ以来、彼から注がれる何かが変わっていた。いや、変わったのはわたしかもしれない。
「嫌われた」と思い込み会わないようにした。すれ違っても目すら合わせなかった。
 それはわたしの矜持だったから。
 いつまでもあなたを追わないという意思表示。
 しかし日を追うごとに静蘭の瞳は苛烈に輝く。
 視線を合わせなくても分かった。
 だって、ずっと見ていたから。
 秀麗しか見ようとしない静蘭をずっと……。
 だから見つめられるのはすこし、うれしかった。でも所詮それは彼の所有欲に過ぎないとわかっていたから。
 圧倒的優位な自分の立場を崩したくないだけ。
 きっと、そう。
 だから今感じる熱さも、なにもかも幻想に過ぎないのだ。


、私を見ろ!」


 紫の光彩を持つ瞳が闇に沈み、暗く輝いた。
 力加減なく握りしめられた腕が痛い。
 そして何より、くちびるが、熱い。
 心が、痛い。
 腕を掴まれ、顎に手がかかる。
 熱い何か、がわたしの口内を蹂躙した。
 何度も、何度も噛み付き、離れては再び。
 酷い人。
 わたしを好きでもないくせに、所有だけはし続けようとする。
 酷い人。
 ダイキライ。
 痺れるような快感を否定する為に心の中で何度も呟いた。