空を闇が支配する。夜も昼もなくネオン輝く世界では決して見る事のできなかったであろう、これが真闇。
それは新月、またの名を朔と呼ばれる夜の事だった。
わたしは手に明かりを持ち、後宮の最奥に向けて歩き出す。ここ数日間欠かさず行っている行為に降り積もる憂鬱を感じた。
そして、
「あら? こんな場所でどうされましたの?」
これが合図だと思った。
(いつも通りに)
心を平静に慣らし、堂々としかし見る者が見ればわかる混迷の表情を浮かべた絳攸に、作り笑いを浮かべながら近づく。あと数歩という位置でかけた声に絳攸の肩が揺れた。
「な、なんでもない。 見回りをしていただけだ!」
「そうですか。 ちなみに外朝に出るにはこちらが近いですよ?」
右手側の通路を指差す。すると絳攸は顔色を面白いくらい白黒させる。
「見回りだと言っているだろうが!」
強攻な態度に悪戯心が刺激される。わたしは緩む口元を押さえ、
「てっきり、贔屓の女官でもいるのかと思ったわ」
と言った。すると絳攸はぽかんと口を開き、拳をぷるぷると振るわせ叫んだ。
「あんな常春頭と一緒にするな!!」
整った顔に立てられた青筋に、思わず吹き出す。
「冗談です。 とにかく――」
言いかけ、眉を顰めた。
「何か聞こえませんでしたか?」
「何を言っている。 何も……」
「――何故邪魔をするの!?」
今度ははっきりと聞こえた。絳攸には女の声としか認識できなかったようだが、わたしは違う。何故ならその声の主は……。
(香鈴!)
踵を返し、音源の扉へ向かう。
「どうした!?」
背後からの呼びかけにも答えられない程の焦燥感を感じた。
早く、早く、早く!!
背中が粟立つ感触に拳をにぎりしめた。
「それがあの方の望みなんでしょう? 私だってお役に――その為なら……。
――……っ!」
蹴破る様に扉を開くとそこには……。
「誰だ?」
響く絳攸の声は心を素通りした。
彼女の艶やかな黒い髪は乱れ、可憐な瞳を縁取る睫毛はぴくりとも動かない。
「香鈴!!」
倒れる華奢な身体を抱き寄せ、乱れる髪を拭い首筋に指をあてる。
――トクン。
聞こえる心音に肩の力を抜いた。
(良かった)
わずかに残る
少しは……この子を守れたのだろうか。
――そうであって欲しい。だってわたしは……。
思考の海が心を覆った瞬間発せられた問いかけに現実に引き戻される。
「それは紅貴妃付きの女官だな?」
「……ええ」
理知的な瞳が急を告げた。
「誰かいないか! 紅貴妃の室を調べろ!!」
――香る甘い香。
乱れ一つない室。
しかしその主は忽然と姿を消していた。
始まった。
冷たい手に心臓を掴まれた気がした。
始まってしまった。
わたしはこれから
そして罪人となる。
堕ちる。
どこまでも深く。
何よりも深遠に。
しかし愚かなわたしは、恋い慕う者を求め、走り出す。
自分の過ちに気づくことなく。これから失うものの大きさを理解できずに。