もう、思い出には届かない

 夢を見た。
 それはとても鮮明で、美しく、やさしいものだった。


「自分の選んだ道を行きなさい」


 思い出す。これは後宮に上がる前夜の出来事だ。
 鴛洵様がわたしの入れたお茶を傾ける。そんな光景を見る事もなくなるのだろうと思い、少し寂しかった。
 しかしその予想は半分当たり、半分外れた。わたしが後宮に上がった後も、男装という制約はついたものの数ヶ月に一度は鴛洵様と共に過ごす時間が得られた。それもこれも全ては彼の細やかな気遣いのなさせる技だったのだろう。
 鴛洵様は優しい。いつでもわたしたちを愛しんでくれていた。
 でももうない。無くしてしまった。
 わたしの入れるお茶を、「ありがとう」と微笑み受け取ってくれた人には二度と会えない。









 そして目前の光景がゆらりと揺れて、現実が訪れる。
 焦点の定まりきらない瞳に映ったのは綺麗な藍色の衣だった。


「楸……瑛……さま?」
「おや、殿に名前を呼んでもらえるとは。 こんな状況でなければ狂喜乱舞してしまうところだよ」


 切れ長の瞳を笑みの形にゆがめわたしの額に手を置いた。遠い意識の中、彼の纏う衣のシャラシャラと揺れる耳障り良い音に耳を澄ませた。


「……香鈴は無事?」


 あの子がここで死ぬはずが無い。そうなってはこの物語はあらすじの一部を失う。しかしわたしは不安だった。最早ここは物語の世界ではなく、現実だったから。
 鴛洵様の“死”でそれが痛い程理解できたから。


「ああ、大丈夫。 別室で寝ている。 起き上がれるまで少し時間がかかるかもしれないが。 その後はおそらく……」
「茶州へ行くのね」


 楸瑛の瞳が寂しげに頷いた。彼はわたしがこれから言い出す言葉をわかっているのだろう。
 彼の腕に縋り、身体を起こす。そして楸瑛の揺れる瞳を見つめた。


「わたしも、行くわ」


 沈黙は数泊、楸瑛は長いため息と共に承諾の意思を伝えた。


「わかりました……。 主上にお伝えしましょう」
「ええ、彼にはごめんなさいと伝えてくださ……」


 せめて笑顔で、しかし心のままにならず引きつり、涙が頬を伝い落ちる。


殿!」


 強い圧力に息を止めた。そして包み込む甘い芳香。彼らしく趣味の良い香りだと思った。
 永遠とも思える一瞬の抱擁の後、わたしは楸瑛の背中をやさしく叩く。


「大丈夫だから」


 弱まる拘束、離れる熱。それに一抹の寂しさを感じながらも、ゆっくりと離れた。


「ありがとう。 わたし、あなたの事好きよ」


 楸瑛は目を見開き、わずかに頬を紅潮させた。その様子は無垢な少年のようで、思わず吹き出したわたしに頭上から懇願ともとれる切なる声が降り注いだ。


「一度だけでいいです。 私の願いを聞いてくれますか?」


 きっと今の楸瑛を他人が見たら、「彼らしくない」と目を見張るのだろう。しかしなんとなく気がついていた。かけられた甘い言葉も、優しさも、愛しさも。全てはわたしではないだれかに捧げたかったものなのだろう。
 だから……。


「内緒だよ?」


 呟いて震える熱をくちびるで受け止めた。