ちょうちょ結びの赤い糸

 軒が揺れる。
 茶州へ向けて軒が揺れる。
 目前には遠くに視線を向けたままこちらへ帰ってこようとしない香鈴と、痛ましげに見つめる珠翠様。


「香鈴、いらっしゃい」
「……はい……」


 ほぼ無意識の状態ながら、まったく反応がないわけではわけではない。呼びかければ返事をするし、口元まで運べば食事もする。しかしこれでは生きる人形と大差ない。愛らしい瞳に何も映らず、語らず、思考するのすらやめてしまった。
 これがわたしの罪。
 抱きしめることしかできない自分の無力さに奥歯を噛み締めた。










 香鈴の身体の傷が大方癒えた頃、茶州の縹英姫様から主上への文が届いた。


「二人はわたくしがお預かりいたします」


 二人とは香鈴とわたし。鴛洵様の愛した奥方様はわたしたちを引き取ると申し出てくれた。
 その文に主上は微笑み頷いたという。わたしを姉や母の如く慕ってくれていながらその掌から離してくれる。
 主上は優しい。
 そんな彼に会わせる顔などあるはずもなく、室に向かう勇気が持てなかった。
 主上だけではなく、もう誰にも会うつもりは無かったのだ。
 なのに……。


「……せい……らん……」


 出発前夜、足はひとりでに静蘭の室へと向かっていた。今更どんな顔をして彼に会うつもりと心の中で何度も呟き、理性で本能を留めようとした。しかし欲望は押さえがたく、気がつけば彼の室は目前に迫っていた。
 そして意を決して足を踏み入れる。わずかに開いた窓から銀色の光が差していた。
 視界が涙で曇る。
 好きで好きでどうしようもなく好きで、諦め切れなかった人がそこで寝息を立てている。


(この人の心に在るのは秀麗だけなのに)


 立ち止まろうとする意思に反して、身体は静蘭に歩み寄る。
 止まらない。
 寝台に手を伸ばし、少しだけぬくもりに触れた。一泊、息を吸い込んで吐き出して。少しの躊躇の後、手を引いた。
 しかしその瞬間、瞬きをするほどの早さで身体ごと寝台の中へと引き込まれる。そして少しの格闘の後、馬乗りに両腕を拘束された状態で寝台に押し付けられた。
 でもそんなことより、青い炎を宿した瞳に捉えられてしまって。それがあまりに綺麗で頭がおかしくなるかと思った。


「……っ。 起きてたの?」
「ああ、黙って別れを告げられるとでも思っていたのか?」


 そして身体を包む熱と近づくくちびる。それはついばむ様に甘く、貪るように激しく、蕩ける様に熱かった。
 でも抵抗しようと思えば出来たはずだ。静蘭は病み上がりの身、有無を言わせず抱きすくめられたわけではない。
 だからもう言い訳ができなかった。抱きしめ返したのも舌を深く絡めたのも全てはわたしの意思。


(好き、静蘭が好き。どうしようもなく、大好き……)


 声なき悲鳴に引き裂かれる。でも、伝える事ができなかった───その資格を持っていなかったから。
 だからわたしは合わせの奥に進もうとする静蘭の指先を阻み、軽く胸板を押し返す。
 明確な拒絶の意思。
 彼の瞳に過った傷ついた光に、胸が痛んだ。しかし受け入れられなかった。
 何故なら、


「……わたしとあなたは違う箱庭に住んでいるから。
 ……だから
 もう一緒にいられない」



 消え入るように告げた別れに、静蘭は叫ぶ。


「何を言っている! 私は……!」


 否定をしてくれて少しだけうれしかった。でも心を隠して漏らしたのはため息。


「じゃあ静蘭は秀麗から離れられる? わたしを選んでくれる?」
「……!」


 静蘭が息をのむ音が静かな室にヒンヤリと響いた。


「できないでしょう? ……わたしも出来ない。 香鈴を見捨てる事も自分の世界を捨てる事も……」


 静蘭の表情は俯いてしまった前髪に隠れて見えない。


(見えなくて良かった)


 どんな表情でも見てしまえばきっと戸惑う、きっと傷つく。


 好きになってごめんなさい。




 静蘭はわたしを選べない。
 わたしは静蘭を選べない。


 頬を伝う涙を拭わず、口を開く。


「さようなら」


 寝台に涙の染みができて、わたしとあなたを繋いでいた細い、細い、ちょうちょ結びの赤い糸がゆるゆると解ける音が聞こえた。















 軒が揺れる。
 茶州に向かう軒が揺れる。

 貴陽で得たたくさんの愛情を捨てて、鴛洵様と香鈴を裏切って。償いにならぬ償いを続けわたしは一体どこへ行くのだろう。
 香鈴の為にと思えばこそ表情では笑顔を作れても、心はじくじくと腐っていった。
 
 
 
 


 あの出会いまでは。


「あああああの! どこか痛いんですか!?」
「へ?」




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 わたしたちは、本当によく似ているね。








 第一章完 第二章へ続く。