ひぐっひぐっ、と中庭の草むらの中からちょっと情けない感じの泣き声が聞こえた。
鄭補佐から休日を頂いた。
働き過ぎだと言われたが正直あまり自覚はない。というか万年過労な彼にそんなこと言われてもと思ったのだが、なし崩しに頷かされてしまった。
州府の人間が彼に勝ったところなど見たこともないし、聞いた事もない。どんだけ最強なんだ。
すると書類の山に追われながらもそれを聞いていたらしい浪州牧から、「うまい汁麺の店があるからいこうぜ!」なんて誘われたけど、香鈴に関わる事以外の全てが面倒で憂鬱で、「申し訳ありません……」と断ってしまった。
しかしその言葉を告げた瞬間の彼の顔は『がーん』という効果音がぴったりで、まるで漫画の一コマみたいだと思った。
「ぷっ」
申し訳ないと思いつつも、思わず吹き出す。
するといつのまにやら、物陰から様子を伺っていたらしい州官たちが歓声をあげた。
「小僧よくやった!」
「まるで花の様じゃ」
「でも抜け駆けは許しませんよ」
……わたしの笑顔で賭けでもしていたのだろうか?
そしてぽんっと叩かれた肩に見上げるとにかっと笑った浪燕青。
「やっぱりあんた、笑った方が美人だな!」
「は?」
やんわりと腕を払い落とし、目前の変った人に冷たい視線を送ったのだった。
そして今日。
わたしは中庭を意味なくぶらぶらと散歩していた。
菊花邸の庭は彩七家に名前を連ねるだけあり、立派で手入れも行き届いている。別邸のこの庭は鴛洵さまが生前気に入っていた場所だと聞いた。
風が吹き、木の葉が舞い踊る。緑に芽吹いた新芽がすくすくと育ち、新しい親となる。
ここを歩いていると心が静謐を取り戻す。
本邸とは大違いだ。あの邸は何かがおかしい。英姫様がこちらに移ってから益々状況は悪化し、産毛が逆立つような寒気を時折感じる。
しかし、
「わたしには関係ないか……」
茶州に来てからというものの思考能力がなくなってしまったのかと思う程無気力で、仕事はしているがそれだけだ。むしろ忙しさにかまけて、思考を止めてしまっているのかも知れない。心は前に進むどころか後退しているような気さえする。
香鈴はがんばっている。きっと貴陽では主上も秀麗も自分の道を歩き始めているのだろう。そして 静 蘭 も、きっと。
なのにわたしは……。
思考が黒く塗りつぶされかけた瞬間、その声に我に帰る。
「ぐすん、僕がなさけないから……」
垣根の向こう側から聞こえた。
「こんなんじゃ大叔父様に顔向けできないよぅ……。 でも僕なんか元々……」
ふと興味を覚えかき分けて進んだ。そしてうずくまる十代後半とおぼしき青年を見つける。
「どうしました?」
背後から話しかけるとびくんと肩を震わせ、怖々といった様子で振り返る。
「ごめんなさい。 すぐ出て行きますから!」
「え……と、別に構いませんよ? ただ何かと思って来てみただけだから」
幼児をあやしている気分になり、威圧しないように心がけ小首を傾げた。そして涙に濡れた頬に手ぬぐいを押し付ける。
「ずびばせん」
「いえ」
彼の様子を少しだけ眺めて、立ち上がる。
しかし彼の名前を聞いていない事に気がつき、振り返った。
「わたくしは先日から英姫様にお世話になっています、と申します。 失礼ですが貴方は?」
「ぼ、僕は、茶克洵です。 さんは……ああ! 春姫の侍女の……香鈴のお姉さんですね! お話は伺っています」
「ええ、香鈴がお世話になっております」
つつなく振る舞いつつも、頭の中では茶克洵という名前がぐるぐると回っていた。
これだけは不思議とはっきり覚えている、『茶克洵』は鴛洵様の後継者となるべき人の名前だ。
思わず惚けた様にその青年の顔を見つめる。しかし彼は涙を拭うと、わたしの顔を見て心配そうに眉を顰めた。
「あああああの! どこか痛いんですか!?」
「へ?」
わたしは笑った。
「なにを仰っているのかわかりません」
「でもなんだかすごく辛そうに見えて」
「そんなことは……」
ないと言いかけて、急に呼吸が苦しくなる。
違う。
ずっとずっと痛かった。
心が張り裂けそうにだったのに。
やさしい鳶色の瞳が映し出すのは泣きたいのになけない強情な女。
彼の瞳はあまりにも鴛洵様に似ていた。
それを理解した瞬間、まるでたがが外れた様に涙が溢れ出した。