唐突な……英姫様はいつだってそうなのだが、しかし今回はいくら彼女の用命でも簡単に頷くことはできない。
人払いの済んだ室に今日も二人きり、高い天井には声がよく響く。
「一体どうして!?」
正直行きたくないっていうか、すごく行きたくない。だって周囲に大きな迷惑をかけた上、静蘭には今生の別れの勢いで担架を切って出て来たのだ。あちらが茶州へ来ると言うなら仕方ないが、わたしから行くのは嫌だ。
しかし英姫様はわたしの内心の葛藤を知ってか知らずか興味無さげ鼻を鳴らし、優美な仕草で扇子を振う。
「この手紙を霄のやつに届けてきいや」
差し出されたのは薄っぺらい紙切れ。なんだか妙にシワシワでどう見ても手紙というより紙くずだ。
「……え、英姫様これはいくらなんでも……」
「霄にはお似合いじゃ」
間髪入れずに悪そうな笑みを浮かべた英姫様に、背筋に寒いものが走った。
英姫様が霄大師の事が嫌いなのはいまの仕草でよくわかった。でもわたしだって彼女に負けないくらい霄大師が嫌いだ。
口ごもりながらも抗議をすると、英姫様は無言で扇を開く。
そして数泊間をとり、
「鴛洵の為……いや、妾と其方エゴの為じゃ。 妾とてみすみす鴛洵を贄などにするつもりはない。 あの腐れ狸にもせいぜい役に立ってもらうことにしよう」
その言葉に思わず手紙を持つ手が震えた。
そしてそれを握り締め、意見を反転させる。
「貴陽へ、参ります」
そして燕青から遅れること二週間、準備を整え街を出る。
本来ならば燕青と一緒に行くべきだったのかもしれない。だがヤツについていくと貴陽までの旅が武者修行になりかねない。それに記憶間違いでなければ燕青は邵可邸に居候を決め込むはずだ。ついて行けばもれなくわたしも仲間入り。
本気で嫌だ。
絶対嫌だ。
それって何かの拷問?
だって邵可さまの家に居候するってことは他一名がもれなくついてくるんだよ?彼に会いたいか、会いたくないかと聞かれたら今は会いたくないとしか答え様が無いじゃないか。
というわけで茶家子飼の賊共が出払った頃合いを見計らって、わたしは一人旅立ったのだった。
□□□
そして何事も起こらず彩雲国首都貴陽に辿り着く。
「なつかしい、ってほど前の話でもないけど」
彩雲国首都貴陽の門前に立ち尽くし、照りつける日差しに目を細めた。
道中噂には聞いていたが、例年に無い暑さに辟易する。地球温暖化の影響がこんな場所にまで!……ってここ地球じゃないけどね。
そんな取り留めのないことを考えている間にも着物がじっとりとした汗で湿り気を帯びてきた。男装しているから少しは涼しいはずなのだが、暑いものは暑い。こういう時はやはり、
「……かき氷食べたい……だめならジュースでもいい」
氷は高級品なので無理だろうが、冷たいジュースくらいならなんとかなるかもしれない。
わたしは宿屋を求め街に足を踏み入れた、と思ったら。
「っひ」
ものすごくよく知った後ろ姿を見つけ、慌てて踵返した。
(なんで来て早々!!)
背中のラインを沿って流れ落ちる銀糸の髪に不覚にも眦が涙で滲んだ。そしてわたしが物陰に隠れた瞬間、振り返る。
「どうした静蘭?」
覗き見れば周囲には羽林軍精鋭と思しき男たち。
瞬間、胸に痛みが走った。
「いえ……知り合いの声が聞こえたような気がしたのですが……」
真横に立つ男性との会話が漏れ聞こえる。
心臓の音がドクドクと高鳴って、五月蝿い。このままじゃ静蘭に聞こえてしまう。
(逃げなきゃ)
しかしわたしは胸を押さえ、一度だけ振り向く。
そして踵を返して歩き去った。
静蘭視点
「どうした静蘭?」
茶州から入り込んだ賊退治を始め、半月ほどの時が過ぎた。その間にお嬢様が少年のふりをして雑用係として朝廷で働き、コメツキバッタが居候を始めた。
このどうしようもなく暑い中かけずり回るのは不本意だが、生き生きと働くお嬢様を見ていると心癒される。
だが、
「いえ……知り合いの声が聞こえたような気がしたのですが……」
足りないものがある。
一瞬視界を求めて止まない影が過ったような気が、した。しかし彼女の髪の一筋すらも見つけることは叶わない。
季節外れの春風のような女(ひと)。
あれは夏の日差しのもたらす蜃気楼か、あるいは恋情のもたらす幻だったのだろうか。
……君に会いたい。
握りしめた拳はすり抜けて、空を掴んだ。