魂の名前

路地裏に転がる兇手の姿に、揚羽は十三年前の出来事を思い出していた。
春、蒼遙歌舞団に双子の娘が生まれた。
しかし───双子は吉凶の証。
その強過ぎる異能は凶器に成りうると老人は語った。
しかして一座の大人達は意見をまっ二つに割り、相争う。


殺すべきだ。
いや利用するべきだ。


揚羽にとってはどちらの意見も歓迎できたものではない。だから飛燕と共に母と生まれたばかりの妹達を連れ、逃げた。
振り返る事すらせず、数年。
そして気が付いた時には、蒼遙歌舞団が瓦解していた。
互いに食い合う蛇が相互消滅してしまうように、消えてしまった。
父さえも。
次いで母も後を追うように亡くなった。
それが縹家の画策だと知ったのは今から数年前の事。異能を持つ女子は残らず縹家に連れ去られていた。
蓮花と菫を残して。










舞台の幕は開いた。
緊張に震えそうになりながらもつつがなく流れ、物語は佳境に差し掛かる。
しかし二胡を手にした瞬間、急激に入れ替わった視界。
身体が浮く様な感覚と共に、自分が自分でなくなるおかしな雰囲気を感じた。すでに意識は舞台上にない。だが指先は二胡を奏でる。
誰かが、動かしている。


な……に?


意識すら呑まれる。
そして壮絶なる音色が会場を包み込んだ。


蠢く音が聞こえる。


現世(うつしよ)のものとは思えぬ、音色に乗って妖がザワめく。
いけない、と心のどこかが叫んだ。
でも贖えない何かが意識を包み込み、甘く囁く。


「もう、妾に全て任せておしまい。 其方は傷つく事も、傷つける事もない場所に、ただ居ればよい」


二胡を弾き、優しく微笑む、蒼遙姫の幻影(もうひとりのわたし)
それは柔らかくて、やさしくて、無条件にわたしを認めてくれる存在。
母の腕に抱かれた幼子のように。
このまま眠るのも悪くはない。
そう思った。
でも、


パチンっ!


英姫さまが扇を畳む音が意識を覚醒させる。
次いで慌てた様子で、楽器を奏でた蓮花と菫。
いつのまにやら舞台袖には揚羽の姿まであった。そして目が合うと柔らかく笑み、


帰っておいで。


と囁いた。
視界が揺れ、今度は飛燕の強い視線と勝ち合う。


逃げるな。


漆黒の瞳が射抜いた。
瞬間束縛から逃れた身体。
のしかかった重力に一瞬咳き込みかけた。
最後に、深く沈みゆく声が心の底から聞こえる。


「生きるか……では其方も強くあれ。 冬姫に負けぬほどに、強く」


吹いた突風。
消え去る幻の気配。


「なんだ!?」


快復した聴覚に燕青の声が聞こえた。


後に知る。
その風がわたしを捕らえようと張り巡らされていた、縹家の罠を一掃したことを。
わたしの魂、もうひとつの名前。
蒼遙姫は眠る。


















「お別れだね」
「「おねーちゃん、元気でね」」


花の香りが鼻孔をくすぐった。
揚羽に抱きしめられると、腕の中にすっぽり収まってしまう。恥ずかしい、でもこれでお別れだと思えば振り払う気にはなれなかった。
次いで蓮花と菫を、今度はこちらから抱きしめる。
そして最後に、飛燕を見上げた。彼は今日も無愛想だったけれど、


「お世話に、なりました」
「ああ」


無言で差し出されたひとつの包み。
開くと可愛らしい桃饅頭が入っていた。


「これは?」
「……」
が気にいっていたようだから、飛燕が大急ぎで作ったんだよ」


桃色の瞳が悪戯っぽく笑む。
多分、今のわたしは相当間の抜けた顔をしていることだろう。


「手作りとは聞いてたけど、飛燕だったの!?」
「何か問題があるのか?」
「ないけど……」


飛燕と料理。しかも桃饅頭……。似合わないという言葉は口から飛び出す前に、ぐっと堪えた。
次いで見送る。


「また、いつかどこかで……」
「大丈夫、俺たちと君の絆は決して切れたりはしない、だって仲間だろう?」


告げて背を向けた姿に、綻ぶ花のように笑みが零れ落ちた。









俺は君を利用していた。



紫煙の髪がふわりと流れる。


のこと、知っていた。 舞台上で二胡を弾かせれば、君が君でなくなるかもしれないことも、縹家との因果も。 でも俺にとって一番大切なのは蓮花と菫、そして飛燕だから』


茶州に張り巡らされた縹家の罠はわたしだけではなく、蓮花と菫をも捕らえようとするものだった。彼はそれを回避するためにわたしに近づいた。
理屈は今イチ理解しがたいのだが、今回のことで呪いが解けるように。


『それなら、いいじゃない』


本当にそう思った。
彼はこの一ヶ月本当に真剣にわたしに芝居を教えてくれた。それは絶対に嘘じゃない。
だから告げた。
でもそれは彼には意外なものだったらしく、


『ありがとう』


広い胸に抱きしめられた。
額にくちづけ、頬にくちづけ。
そして今までで最大級の、心臓が痛くなる表情で微笑んだ。


『例え離れても、君は俺たちの仲間だ』


瞬間、満開の薄紅が空を舞う。
そんな幻を見たような気がした。