二兎を追う者は一兎をも得ず

ひさかたぶりに見る彼の顔には焦燥と疲れが浮いて、居たたまれない思いが胸を刺した。茶の衣を纏う青年、頼り無さげな第一印象とは裏腹の強固な意思を持つわたしの主。


「克洵さま、こんばんは」


庭院から窓を軽く叩く。
すると彼は驚いた表情で振り向いた。


さん!?」


無理もない。
邸の警備は厳しく、そう簡単に忍び込めるものではない。そんな中ここまで来られたのはひとえに影がいないことと、宋太傅の地獄の修行のおかげだろう。


「中で話します」


克洵さまに合図して窓枠から離れてもらう。そして腕をかけ、一気に乗り越えた。
次いで笑顔と泣き顔の中間のまま固まる、彼に抱きつく。


「ただいま」
「ひ、ひふうっ!?」


変な悲鳴をあげた克洵さまに構わずスリスリした。


「克洵さまってアルファ波出てる……」


鼓膜にこびり付いた笛の音が浄化されていくようだ。龍蓮ウィルス対策に、この癒しグッズはしばらく手放したくない!










しかして克洵さまを正気に戻したり、お守りしているうちに砂時計は落ちる。
州牧一行が砂恭の町へ入ったと言う知らせを得て、


「行かないで欲しいな」


情報源から逃げ損ねた。


「女性の服のすそを掴むなんて失礼ですよ」
「だって離したら逃げてしまうだろう?」


男は、妖艶に微笑んだ。
仕方なしに向き合うと、整った顔が見つめた。ずっと似ていないと思っていたけれど、こうして眺めるとパーツは克洵さまと似ていなくもない。やはり兄弟なんだなと考えていると、


「そんなに見つめるなんて誘ってるんだね。 いいよ」
「誤解です。 この勘違い野郎」


にっこり微笑んで、寝台に引きずり込もうとした腕をつねった。
すると大げさに痛いフリをする朔洵。


「痕になったらどうするんだい? それから君だんだん言葉遣いが悪くなってきているよ」
「はい、なぜか朔洵様と出会って以来急転直下に悪化いたしまして」
「それは恋の病だよ」


阿呆な事を言われたので、無視して離れる。
すると彼は子供っぽい仕草で眉を顰めた。


「愛するの為に州牧一行の情報を調べてあげたのに、それはないと思うよ」
「教えてくれたのは感謝します。 でも嘘つき男は嫌いなの」
「女はいいのかい?」
「女はみんな嘘つきだから、いいの」


屁理屈でごまかす。
すると彼は流麗な仕草で髪をかきあげ、手招きをした。


「わかったよ、本当に何もしないから膝枕して」
「……はいはい」


ため息を付いて腰掛ける。するとトスンと音がして、柔らかな髪が広がった。
気位の高い猫に懐かれた気分がした。
胸の奥が痛い。
だから余計な事を言った。


「紅秀麗をどうするつもりなの?」
「それを考えるのはお爺さまだよ、そうだろう?」


極上の笑みを浮かべて見上げる。気高くて、冷徹で、計算高い猫。
わたしは表情を変えず、返事を返した。


「そう……でもあなたにはあなたの意思があるでしょう? 秀麗ちゃんは面白い子よ」
「ふぅん」


言葉で何か変わるのだろうか。
次いで立ち上がり、今度こそ別れの言葉を告げた。










胸が痛い。
それが彼を見捨てることへの贖罪に、ならぬとわかっていても。