水底の勇者

それから数日。秀麗は朔洵と去り、春姫さまが訪れた。
夜半の出来事。


「ご無事なによりです」


花の顔が微笑み、首を縦に振る。
次いで彼女が茶家の見取り図に筆を走らせるのを横目に、足音を忍ばせ室を出た。
でも廊下を歩いて数歩、手首を捕まれる。慌てて振り向けば、


「どこへ行くつもりだ」


肩口でゆるく波打つ銀糸の髪。視線が絡み合う。
目をそらした。すると舌打ち。
肩が震えた。


「……ごめん」
「謝るな、が悪い訳じゃない。むしろ」
「ううん、ごめん……」


甘い空気を霧散させて、呟いた。
今謝るから、怒らないで、嫌わないで───二度と会えなくなっても。
もう先送りにはできない。彩雲国で出会った全てが愛しくて、大切だけれど、秤は傾かなかったから。
使命はあと一つ。
鴛洵様を人柱にしない結末へ導く。
全てに型をつけて、わたしは自分の世界へ帰る。
それが正しい結末なのだと思った。



「静蘭、おやすみ」


さようなら。
捕まれた手首をやんわり解き、背を向けた。
なのに、


「待て」


肩を掴まれる。振り向くと彼は見たことない真剣な表情をしていた。次いで表情が切なく歪む。


「好きだ」


瞬間、胸が大きく跳ねた。
でも否定する。
これは終わってしまった物語。
わたしが幕を下ろさなくてはいけない。


「あなたはわたしを好きじゃない」
「何故断言できる!? ……君にずっと会いたいと思っていた……この想いは本物だ」
「違う、それはただの思い過ごし。 結局静蘭にとってわたしは秀麗のいない時の慰めでしかないの」


彼は勘違いをしている。


、誰より君のことが……」


最後まで聞かず背を向けて、首を振った。


「……うそつき、もう、静蘭なんて……嫌い」


袂を握りしめた手の甲大粒の涙がこぼれて、濡らした。









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そして夜半。

「準備はできたか?」

包みをといて、“藍龍蓮”の鉄笛を取りだす。
握りしめて頷いた。

「ええ」

麗しい黒髪の男、霄大師の手をとる。
───直前、幻聴に振りかえる。
でもなにもあろうはずがなく、夜風にドアが小さく揺れた。