狭間へ

気づけば目前に夜の海が広がっていた。
それは一瞬にして砂漠に変わり、荒野に変わり、森林に変化を遂げ。そして故郷に変わった。

「手を離すな」

耳をくすぐる美声に息をのむ。
瞬間光景は消え失せ、一色の闇に塗りつぶされた。
しかして我に帰る。
つないだ手の先を見ると小馬鹿にした表情で見下ろす美丈夫がいた。
霄大師、その若き姿。

「ここが?」
「世界の狭間。ここでは時と場所は意味をなさず、自身と他者の壁も希薄になる」

息を呑むと、砕いた氷を口に含んだ様な寒さを感じた。

「この世界は思いひとつで一変する。たとえば、ほら」

指さされた方角を見て、何もないことに首をひねる。
「一体……?」問いかけ振り向くと五十メートル以上先に見えた彼の姿。

「え!?」
「手の感触を信じろ」

言われてみれば姿は遠いのに、手は繋がれている感覚があった。
指先をたどってそのまま視線をあげる。するとそこには飄々とした表情で見下ろす霄大師。
ため息をついて、促した。

「わかりました。案内してください」
「……小娘が偉そうに」

無視して歩き出す。すると一歩ごとに変わる幻想的な光景。一時間、それとも一分?
狂った感覚は時を告げない。
わたしたちは無言で歩いた。
次いで彼が立ち止まるのに併せて足を止める。濡れ烏羽色の髪が風もないのに視界で揺れた。

「ここだ」
「……これが?」

よどんだ「何か」を目を凝らして見つめた。だけどそれは不定形のモヤがわだかまるごとく確かな姿を見せない。
しかし霄大師が鼻を鳴らし、罵声を浴びせかけると、

「おい、起きろ」
「……うるさい」

脳が揺れた。
反響した声。
音量調節を間違えたヘッドフォンから聞こえた不協和音。
強烈で不可思議な声音。
それは懐の扇を掴むまで反響し続けた。
そして、

「誰……?」

白い闇はたわわみ蠢き、一人の青年へ姿を変えた。
猫みたいに柔らかい髪質。
ふわり、揺れた。
思わず呟く。

「朔洵?」

すると影は優美に微笑んだ。
悪意、熱線、毒。
笑顔は突然質量を以て迫った。
だが霄大師が素早く腕を振るい、霧散させる。

「間抜けめ」
「……ありがとうございます」

膝から崩れ落ちそうになるのを堪えて、顔をあげた。
影はヒタリと満面の笑み見つめ、全ての表情を消す。
朔洵と同じで違った。
身体の芯から冷えていく。
声が震えないよう、呼びかけた。
彼の名前。
彩雲国物語の国語りに必ず現れる───。

「茶仙」

茶本家を闇で覆い茶仲障を追いつめ、早晩朔洵の身体を乗っ取る。
そして茶仙の生み出した闇を封じる……それだけのために鴛洵様は捧げられる。
後半の二つは起きていない、近い未来の出来事。
でも歴史を辿れば必ず。
つまり彼はわたしの……敵。
背筋を延ばし懐の鉄笛を取り出した。
藍龍連の笛を。