千切れた痛覚

黒い海に沈む。
指先にドロリとした感触。
状況を理解する前に、右足を何かに引っ張られた。

「……なん!?」

そして暗い海に引き込まれる。
視界が真っ暗で冷たくて、全身に絡みつく液体が気持ち悪かった。
息が出来ない、何も見えない。
着物が重しのように、水をかき分けようとするのを遮った。
苦しい。
頭の中が真っ白になって、死ぬのかもしれないと思った。

───ごぼり。

口の中から水泡が出て、黒い粘液が肺に到達した。
喉を掻きむしる。
浮き上がろうともがく。
けれど水は全身に絡みつき、わたしから全てを奪った。



諦めかけたその時二胡の音が聞こえた。
水中だと言うのに濁ることなく。
高く、低く、優しく、悲しげに響く。音色に導かれるように黒い水は粘性を失い、光が見えた。少しだけ息も楽になる。必死にそちらに向けて泳ぐ。
進むと不意に世界が開けた。





瞬き一回分の時間。

「どうなさったのお兄様?」

鈴の音のような声が聞こえる。目を開くと綺麗な少女の顔があった。
透けるように白い肌。二胡を持ち、緑の黒髪が冷たい床に広がる。不可思議な、それでいてどこか見覚えのある瞳が瞬いた。

「なんでもないよ、冬姫」

わたしの口が勝手に答える。次いで彼女の頭を撫でた。
目を細める少女。
『愛おしい』ごく自然にそう思った。『私』の愛する人、『私』の可愛い異母妹。『私』の冬姫。誰にも渡さぬ。
思考が流れてきて、とある夢と現状が符合することに気づいた。
わたしは今、縹璃桜なのだ。
彼女は祖母の若かりし日の姿、「凍原に咲く雪花」何度も夢に見た、冬姫の悲しくて少しだけ優しい物語。その主人公。
だから理解してしまった。
璃桜は薔薇の雷光のような眼差しに焦がれた。冬姫の可憐にして一途な瞳を愛していた。
その感情は嘘ではない。
故に狂ってしまった。
失って、でも諦めきれなかったから、執着が化け物に成長した。
認識した瞬間、脳が揺さぶられて唐突に場面が変わる。
『私』の手は血まみれで、愛する異母妹は消えつつあった。

「わたくしは生まれて来てはいけなかったのです」

違う、お前は、違う!

「お兄様どうか幸せに……良き伴侶を見つけてくださいませ」

ぽろぽろと涙を零しながら、彼女は言った。
でもどうやって?
君がいなくなってしまうのに。あの憎き叔母のせいで世界すら隔たって、二度と会えないかもしれない。それなのにどうやって幸せになれと言うのだ!?
璃桜の中で黒い感情がみるみるうちに積み上がる。
叫んだ。
めちゃくちゃに手を伸ばし、着物の袖を掴んだ。引き戻そうと願った。
だけど冬姫は消えてしまった。
呆然と千切れた布地を見つめる。
白い少年が黒く染まった瞬間。
───あの黒い海は璃桜の心だったのかもしれない。
千切れた着物の袂を握りしめながら、そんなことを思った。