骨にもキスの痕が残れば良いのに

瞬きをすると、また風景が変わった。
欄干の向こうで楓が紅に染まりかけ、黄色みを帯びた銀杏の木の葉が風に揺れる。大きな邸の一室だろうか。
手を伸ばすと、縹色の衣が絡め取った。
ひやりとした手のひら。それは死人と錯覚するほど冷たくて、背筋を寒いものが走った。

「おはよう」

透明で聞く人に何も感じさせない音程が降り注ぐ。たたき起こされた直後のように頭が動かなかった。
それが何で、彼が誰なのか。
だけど雪のような銀つむぎの髪が流れ、黒檀の眼差しが見つめた瞬間、全身が総毛立った。
ぽっかりと開いた空洞の瞳。その奥で渦巻く炎が蛇のごとく舌なめずりをしていた。
そして冷たいくちづけが指先に落ちるのを、小刻みに震えながら見る。

「ようやく会えた。私の冬姫」
「……がいます。違います、私は冬姫じゃない!」

声音には深い感慨と愛情が含まれていた。
それが嘘だとは思わない。だけど煮詰めたタールのような愛は粘性を持つ毒でしかない。
恐怖を堪え強ばった身体を動かし、璃桜の手を振り払った。

「うん?」

しかし腰にまわった腕は緩まらず、膝の上から逃れることができなかった。
冷たい指がわたしの顎を跳ね上げ、漆黒の双眸が見つめる。
くちびるが弧を描き笑みの形になった。
次いで一筋髪をすくいくちづけを落とす。

「それが何?私はずっと『君』を探していた。そして見つけた。だから君は私の冬姫だ」

人差し指がわたしのくちびるに触れる。
着物の袖から古い布の切れ端が見えた。あれは、おばあちゃんの着物。璃桜がわたしを探し出すために目印にしたであろう媒体。
奪えば、帰れるかもしれない。
手を伸ばした。
でも脳裏を過ぎった、静蘭の顔に躊躇する。
気づかれた。璃桜は布を隠すように遠ざけ、瞳を覗き込む。
空洞の瞳が深々と見つめた。たゆたう狂気と暗い情念が全身を絡め取り、ささやきは、愛している君をずっと探していた、と呪いをかけた。
───嫌だ!
逃れようと強く目を閉じて、左腕を胸元に押しつける。

「おや?」

何かが弾ける音。次いで肉の焦げる嫌な臭いがした。
目を開くと璃桜の手のひらに焼け焦げた後が見える。彼の顔からすとんと表情が抜け落ちた。
胸元に隠していた祖母の扇に手が伸びる。

「それは私に預からせてもらおう」
「いや!!」

腕をはらう。すると澄んだ音が聞こえて、右手首に透明な手かせが嵌まった。
瞬間、全身を脱力感が襲う。手かせに体力を吸い尽くされてしまう感覚。
冷たい指先がくちびるに触れた。反射的に噛みつくとガリっという音がして、

「痛っ」

赤い液体が一筋流れ落ちた。
しかし彼は手当をしようともせず、首筋に手を伸ばす。

「今の君には貴陽の守りも蒼遙姫の力も存在しない」

襟を掴まれ床に後頭部を打ち付けられた。襲い来る痛みと嘔吐感を必死に堪える。

「今度こそ冬姫は私のものだ!!」

歪んだ表情が視界いっぱいに広がる。
溢れる涙を堪えきれず、僅かな抵抗すら封じられた。
完全に身体が動かなくなる前に、腕輪型の暗器についた仕掛けを作動させ、毒針を放つ。しかし、

「おいたはいけないね?悪い子にはお仕置きが必要だ」

首筋に刺さった針を引き抜き、微笑む。
煮詰まった狂気が地獄の蓋を開けて、わたしに覆い被さる。
───助けて。 どうしようもなくて、頭が真っ白になりそうで、呟くことしか出来なかった。

「静蘭」

来られるはずがないのに。
わかっていても、呼ぶのを止められなかった。
かくして狂気が走る。

「その名を呼ぶのは止めろ!」
「静蘭……」
「止めろと言うのに!!」

指が喉に食い込む。気管を圧迫して、息が出来なかった。手足をばたつかせても微動だにしない。
喉がひゅうひゅう音を立てるのが大きく聞こえた。
銀つむぎの長い髪が視界を塞ぎ、黒曜石の瞳が歪む。白く細い指が信じられないほどの力で喉に食い込んでいた。
空洞から黒い海があふれ出す。
意識が遠くなった。
諦めかけた瞬間、頭上で風を切る音と共に空間が一文字に裂ける。
そして見えた白菫色の髪と怒りに燃える濃紺の瞳に、わたしは安堵の涙を流した。