螺旋を抱く

耳が痛くなるほど静謐で、暗い空間。
霄太師は言っていた。
時と場所は意味をなさず、自身と他者の壁も希薄になる場所。
すなわち、思い一つで変化する世界と。
それでは暗く静かで痛い。これが璃桜の心象風景なのだろうか。
彼はどれくらいの時間一人佇んでいたのだろう。
心が痛む、けれど同情はしない。なぜならわたしは知っていた。璃桜には大切にしてくれる人も、愛してくれる人も、側にいてくれる人もいる。捨てたのは彼自身だった。
さしのべられた手を払う。『冬姫』の為に全部無視した。
人生の初期において愛したもの以外、無価値だと思い込んだ。白い子供だった自分を『人』にしてくれた冬姫と薔薇姫以外、視界にすら入れない。
水面の月に恋い焦がれ、掬い続けた。
哀れな子供の末路。

「もういいよ」

月光を編んだような銀の髪が瞳を隠す。明け昊色の衣が恨めしげに揺れていた。
ぞっとするほど暗い声音が響く。

「手に入らないのならいらない」

綺麗な顔が壮絶に歪み、悪鬼が現れるのを悲しく見上げる。

「璃桜、あなたはどうして……」

息が詰まって胸が狭くなる。氷を飲み込んだように寒かった。
璃桜が壊れる。
ヒビを入れたのは祖母、粉々に破壊したのはわたし。
嫌いじゃないけれど、気持ちは痛いほど理解できるけれど、好きとは違う。それが止めを刺す行為だとわかっていても言わずにはいられなかった。

「下がっていろ」

静蘭の手が近づいて包み込まれる。途端に心が暖かくなった。
握りかえしてして、小さく頷く。
この手を選んだ。
それは絶対、間違いではない。
胸を張って相対する。彼が半歩前に出た。
熱くてくすぐったい。冷たくて切ない。
選ぶことは悲哀と甘美、両方含んでいるのだと思った。
正面から突風が吹きつけ髪が後方に流れる。

「冬姫、死んで」

白銀が舞い上がり、奈落の底の瞳。
声と共に黒いさざ波が現れた。
警戒していたはずなのに瞬きをした次の瞬間、無数の黒い刃に変わる。
それは空間を切り裂く。

「させるか!!」

干將が蒼く輝いた。
飛び出し黒い刃を叩き折る。折られたそれは、一瞬で沸騰し気化した水のような音を立てて消えた。
だけど攻撃は終わらない。
璃桜が腕を振るうと、今度は全方位から黒い刃が現れた。

「逃げて!」

最初静蘭に向かっていたそれは突然方向を変え、わたしに迫った。
迎撃に出ていた静蘭との距離は十歩ほど。
間に合わない。
尖った先端が顔面を、胸を、腹を、足を抉る。
心臓を冷たい手で掴まれた。
明確な死が近づく。



しかし叫び声は想像より近くから聞こえた。
静蘭の腕が視界を埋める。白藤色の髪が広がり、広い胸に抱き留められた。

「やめて!!」

刃が静蘭の背中を刺し貫く、直前。
突如扇が胸元から滑り落ちて浮かび上がった。

「なん!?」

声はかき消えた。
鼓膜が破れそうなほどの爆音に頭が真っ白になる。
次いで衝撃が襲い来た。
腕の中に庇われ、だけど余波で背中をしたたかに打ち付けた。身体をくの字に折って咳き込む。
耳が聞こえない。
背中が痛い。
回復までにしばらく苦しんだ。
聴覚が回復した途端聞こえたのは、焦りと痛みと不安の混じった声だった。

「生きているか!?」
「……なんとか、静蘭は」
「この通り無事だ」

濃紺の瞳がわたしの眼前で揺れ、弛緩する。
極上の甘味。
微笑みに思わず頬を染め、目をそらす。
背中越しに見渡すと、黒い刃は跡形もなく消えていた。

の胸元から扇が飛び出して、あの刃を道連れに四散した……ように見えた」
「……そう」

顔を上げると新雪の感触が頬を撫でた。
一瞬気が遠くなる。
しかし呼びかけで現実に引き戻された。

「良かった」

いつの間に近づいたのか、漆黒の双眸が覗き込んでいた。
璃桜は稚児の手を捻るように、覆い被さっていた静蘭を蹴り上げる。

「やめて、静蘭に何をするの!?」

腹部を押さえて苦悶の表情を浮かべる。
元々傷だらけだった上に、あの爆風を直接受けた。
無事なはずがない。
額から流れ落ちた一筋の血にぞっとする。駆け寄ろうとして、強引に止められた。
璃桜に抱き留められる。
それを見た静蘭は起き上がろうと藻掻いていた。
涙が浮かぶ。
恐怖に震えた。無茶をしないでと言いたかった、早く迎えに来てと叫びたかった。

「大丈夫?」

心配そうな璃桜の態度に背筋が凍える。
静蘭が呻いた。

「どういう……つもりだ!?」
「やはり私に冬姫は殺せない」

静かに瞼を伏せた。

「駄目だった。やはり私は君に死んで欲しくはないみたいだ。ならば父上がしたように閉じ込めることもできる、でもそれはどうしてかしたくないんだよ。……だから」
「だから?」

毛穴が逆立つ。
逃げなければいけない、でも身体が動かない。
そして彼はゼンマイ仕掛けの人形の様に、微笑んだ。

「愛していたよ、私の冬姫……さようなら」

くちびるが塞がれる。
頭の中で警報が最大音で鳴り響いた。

から離れろ!!」

静蘭が無理矢理起き上がろうとするのが見えて、

「駄目!!」

腕を伸ばす。
だけど抱きしめる腕は離れず。
視界を古びた布が覆った。

「え!?」
−!!」

藻掻くが、頬を引っ掻くばかりで取れない。
突然腕が離れ、両肩を押された。

「……え?」

階段を踏み外したように、

「きゃああああ!!!」

わたしは落下しかけた。
その時、声が聞こえる。

「掴まれ!!」

手を伸ばす。
あんな身体でどうやってここまできたのか、指先が触れた。
静蘭の手だ。
だけど温もりはすり抜けて、触れた布地を必死で掴んだ。
一瞬宙づりにされたような状態で止まる。
しかしすぐさま強い力で引き裂かれて、音を立てて破れた。
何かに飲み込まれる。
意識が暗転した。









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遠くから暑苦しい蝉の鳴き声が聞こえた。
古い着物の切れ端が顔から滑り落ちる。
目を開くと、アスファルトの地面が蜃気楼の見えそうなほど熱せられていた。