帰る場所

路地裏に一人立ち尽くす。
蝉の声が鼓膜に響き、うだるような暑さに熱せられた地面が視界に入った。薄く開いたくちびるに汗が伝い落ちる。思わず拭って、手の甲を見た。
そしてむき出しの腕に自分が着物ではなく、半袖のシャツを着ていることに気づく。

───帰ってきた?

蝉が五月蠅くて、考えがまとまらない。
だけど背後から聞こえたクラクションに、心臓が飛び出しそうなほど驚き、同時に我に帰った。
胸に手を当てて気持ちをなだめながら路肩に寄る。
しかし、

「姉ちゃん何やってんだ?」

聞こえた声に瞳が潤んだ。親愛と、混乱で子供のように泣き叫びたい心境に陥る。
そんな気持ちのまま振り返ると彼は車の窓から顔を出し、眉をひそめていた。

「周防」
「……は?」

ぶっきらぼうな返事を聞いて、本物だと確信した。弟は、怪訝な表情を隠しもせず車から降りる。
わたしは見上げて、くしゃりと顔を歪めた。

「私、帰ってきたの……?」
「姉ちゃん、頭おかしくなったか」

さっき家出たばかりだろ?その言葉にさらなる衝撃をうける。

───白昼夢。

たくさんの人と出会って、悩んで、泣いて、笑ったと思っていた。
だけどどんなに長い夢でも、現実では数秒の時間しか経過しないという。ならば彩雲国で過ごした十年近くの時間も、ほんの一瞬の間に見た夢なのだろうか。

───そんなの、嫌だ。

頭を抱えてうずくまる。
そして地面に落ちている二枚の布きれを見つけた。
古びた着物の切れ端と、破れた冬姫牡丹の刺繍。
目を見開いた。

「おい、まじでどっか悪いのかよ?家まで送ってやるから車乗れ」
「……夢じゃなかった?」

祖母の着物と、わたしが刺して秀麗ちゃんにあげたはずの布巾がここにあった。
再び周囲を見回す。
高くて狭い空、コンクリートでできた壁、整備された道路、遠くから聞こえる人々の喧噪。久しぶりに嗅いだ排気ガスの匂いに気持ちが悪くなった。口元を抑えると、「げ、車で吐くなよ」と言って弟に抱えられる。
助手席に乗り込み、胃の奥からこみ上げる嘔吐感に耐えた。
手の中にある布を握りしめる。
夢じゃなかった。
でも……同じかもしれない。
夢でも現実でも。

───もう戻れない。

「ほらついたぞ!お袋、姉ちゃんが吐きそう!!」

あれほど帰りたいと焦がれていた自宅を仰ぎ見た。
懐かしさと焦燥が入り交じり、どうしたらいいのかわからなくなる。

「姉ちゃん!?」

意識を失う一瞬前、肩を強くつかまれる感触があった。

───二度と会えない。










□□□










目が覚めると絶望的な気分が、少しだけ緩和されていた。
濡れた頬を拭い、身体を起こす。
天井を眺め、埃が積もった電球を見つめた。
起き上がって膝を抱える。
枕元に置かれた布に手を伸ばした。
抱きしめて目をつむる。
彩雲国で過ごした日々が走馬燈のように過ぎった。
香鈴、鴛洵さま、劉輝さま、先王陛下、克洵さま、秀麗ちゃん、……静蘭。
ずっと帰りたかった場所へ戻ってきた。なのに胸にはポッカリと空洞が空いている。
彩雲国へ戻りたいのか、ここへ帰ってきて嬉しいのか。それはどっちも本当で、だからこそどうすればいいかわからなかった。

「……はぁ……」

吐き出した息を吸い直して、深呼吸にした。
ベットから起き上がり、鏡の前に座って身繕いをする。

「周防怒ってるかな?」

独り言を呟き、苦笑した。確実に怒っているだろう。
ブラシを置いて、部屋を出た。
そしてわたしは日常へ帰る。


現金なもので母の作ったご飯を食べ、一晩ぐっすり寝たら妙にさっぱりしていた。
一日くらいゆっくりしていたら?という母の提案をやんわり断って、劇団へ足を向ける。
ひさしぶりに見た練習場は、まぶしいほどの活気に包まれていた。

、昨日倒れたんだって?」
「イケメンの弟くんから電話来たよぉ」
「疲れてたのかな?いきなり休んでごめんなさい」

ぺこりと頭を下げると、息をのむ音が聞こえた。

「すっげーなんか貴族のお嬢さんみたいだな。次そういう役やるのか?」
「ううん、やらないよ」

曖昧に苦笑した。
その後も、良い意味でも悪い意味でも変な注目を浴びてしまった。
昨日まで覚えていたはずの台本を忘れている。殺陣を初めとして、妙なものが変に上達している。みんな不思議そうな顔をしていたけれど、謝ることと誤魔化すことしかできなかった。
そうやって毎日が変わりなく過ぎて、劇団も、家族も、ギクシャクしたのは最初だけだった。
元々ここがわたしの場所なのだから当たり前といえばその通り。
そう、これが在るべき姿。
だけど稽古の帰り道、沈む夕日が橙から濃紺に染まる瞬間、不意に彼の瞳を思い出した。
銀糸の髪が風にながれ、鋭い瞳が時折柔らかく微笑む。冷たくて優しい人。
きっとこんな悲しい思いも、いつか全部忘れる。

「……忘れる?」

足が止まった。
自分が考えていたことに驚き、額に手を当てる。

「忘れるの?……香鈴も、鴛洵様も……静蘭も?」

時が止まる。
遠くからひぐらしの声が聞こえた。
鞄が地面に落ちる。
帰ってきてから一ヶ月過ぎた。
彩雲国が遠くなる。思い出になって、感情を忘れる。
しゃがみ込みそうになるのを堪えて、鞄を拾った。一歩一歩地面を確かめるように歩いて、家にたどり着く。母の前を通るときだけなんでもないフリをして、ベットにつっぷした。

「……静蘭」

涙がポロポロ零れる。

「忘れたくない……会いたい」

零れた涙がシーツにしみこむ。
呟いた瞬間、机の上で『布』が淡く輝いた。
それに気づかず泣き続けた。