* * *
(出会い)
風が吹く。
桜花が闇の中、電灯に照らされ散っていた。数日間の仕事が終え、足どりも軽く家路に向かう最中。
静かにアパートの階段を上り、ドアを開いた。
瞬間、世界が歪む。
「……あ?」
そして彼と出会った。
バーテン服の男。
睫が音をたてて瞬く。ぐるり、表札を見るとそこは確かに私の部屋で。
「……誰だ」
疑問に答えず、立ち尽くす。
彼を見つめた。
自分の部屋に初対面の男。
でも泥棒ではない。
だって知っている。私は知っていた。
猫の毛みたいに柔らかそうな金色の髪。サングラスを外した瞳は純粋で、なのに深い光を内包していた。
こんなことあるはずがない。だけどこれは現実。
期待をこめて呼びかけた。
「平和島静雄さん?」
「……なんで俺の名前知ってるんですか」
空気が一瞬にして張りつめる。だけど私はそれを引き裂いて、満面の笑みを浮かべた。
歓喜で震える身体を押さえて、歩み寄る。
「信じる」
彼が本物だと信じた。
それが虚構を現実と混在させる行為だとわかっても、高鳴る胸の鼓動を押さえられなかった。
「あんたさっきからなにごちゃごちゃ言ってるんだ。だいたい夜中に人の家に、」
怒りが噴火する直前、最後の一歩を踏み出して、彼の視界を埋めた。
次いで告白する。
「あなたが好きです。結婚してください」
くちびるに感じた人肌の温もり。
呆然と立ちすくむ彼の頬には朱が差して、落ちたタバコが床を焦がす。
「好きです、大好き」
可愛くみえる角度を計算して、もう一度笑った。
* * *
「静雄さん、静雄くん、しずちゃん……はダメか、うーん」
「なんで俺の名前連呼してんだ」
仕事から帰って来て、ソファーでくつろぐ彼。
タバコを燻らせるたびに揺れる金髪は、まるで猫じゃらしみたいだ。
ということで後ろから抱きつく。
「……ヤメろ」
「イヤ☆」
身体からお風呂上がりの湯気が立ち上る。
すりすりして、最終的に収まりのいい肩口にあごを乗せた。
「お風呂入りながら、あなたの呼び方を考えてたの」
ふぅーと耳元に息を吹きかけた。
返事は返って来ない。だけど徐々に熱を帯びつつある頬が彼の感情を如実に表していた。
「シズちゃんは、嫌だったよね?」
「嫌だ」
問いかけながらも、蝶ネクタイを緩めて、ボタンを外す。
いい鎖骨。
思って指を這わせた。
「じゃあ静くんかな、無難に」
その時不思議そうな表情で見上げる静くん。
「前から思ってたんだけど」
「うん」
「なんであんた年上ぶってるんだ?」
年下だろう?
言い切った顔に思わず間の抜けた顔を見せてしまった。
次いで前転の要領でソファーを乗り越え、横に座る。
「静くんって23よね?」
「そうだけど」
「だったら年上だよ」
「……は?」
ちょっとだけ、えーと多分ちょっと。
見開かれた瞳に、困って微笑んだ。
* * *
さわさわさわさわ。
【太く太くなろうとする筋肉繊維。だが、静雄の怒りは細胞達にそんな暇を与えない。そして、それは、奇跡が偶然か、細胞達は別の道を選んだ。筋繊維の束はそれ以上太くなるのを諦め、その細さのままで、より強靭になる道を選んだ。最低限の再生。より強くなる為に、関節も骨すらも、静雄の生き方に成長の仕方を変化させた。骨は鉄みたいに固く、関節は脱臼を繰り返すうちに癖を通り越してより強靭になるように進化した】
新羅説によると上記。
なるほど、と思う。
しかし不思議。だって静くんは華奢ではないけど筋肉隆々でもない。そういう理屈だってことは理解できたけど、実物を目の前にするとやはり変な感じがした。
目の前で暴れるのを見たことがないのもそれに拍車をかけているのかもしれない。とは言え数回キレそうになったことはある。でも愛の告白をすれば大丈夫!真っ赤になって黙り込んじゃうんだよね。
可愛い!静くん可愛い!!心の中で絶叫しながらも手は止めない。
「……いつまで触ってるんだ」
「静くんの全身をくまなく味わい尽くすまで」
「離せ」
首根っこを猫みたいに掴まれた。
痛い!いーたーいー!!
「これから腹筋の確認をしたいのに!! けち!! 静くんのけちー!!」
ちょっと、全身の筋肉を触ってただけなのに!あくまで知的好奇心なのに!!
それに初めは何も言わずにソファーに座ってタバコを吸っていたのに、二の腕から胸筋のあたりでぴくりと動き、下腹部を触ろうとしたら全力で拒否された。
なんで、なんで、なーんーでー!?
「あんた男を舐め過ぎなんじゃないか」
何故か(家の中なのに)サングラスをかけなおして俯いた彼を覗き込んだ。
「それはつまり……」
足下に座り込み、膝に両手の乗せる。
思案の後、上目づかいで視線を合せた。
「私とセックスしたいってこと?」
すると静くんは永眠した。
「静くーん?」
頬をぺちぺち叩く。
首を捻って呟いた。
「変な静くん」
* * *
静雄は困惑していた。
突然、生活そのものに割り込んで来た彼女。
「世界が混ざっちゃったみたい?」意味不明な言葉を告げて、居座った女に怒りを感じた。だがその度告げられる「好き」という言葉。
・
・
・
───離れて行くはずなのに。
彼女もいつかは俺を恐れ、いなくなってしまう。
・
・
・
静雄は誰かに愛されたくて、誰かを好きになりたかった。
でも受け入れられるはずがない。諦めは、ついていたはずだ。
だけど、
「静くん」
花の様な笑みに、小さくて柔らかい、抱きつく腕に。
「なあ」
「うん?」
叶う筈ない願望。
「……別に」
しなだれかかる重みを、望むに任せて受け止めた。
そして自嘲気味に笑う。
「変な静くん」
彼女は咲き初めの桜に似ていた。
柔らかくて、包み込むようで───儚い。
抱きしめるのが、怖い。
* * *
「殺す、殺す、殺す、殺す」
今日の静くんはご機嫌斜めだ。私が仕事の都合で家を空けている間に、あちらの世界では色々あったみたい。
まあ彼がここまで怒り狂って、狂い続けているということは、
「臨也殺す」
本当に犬猿の仲なんだな、と心中で納得した。
次いで洗い立ての髪をタオルドライしながら冷蔵庫を空ける。
───カタン。
幽くんの真似をして、テーブルに牛乳を置いた。静くんってホント、瓶牛乳大好きよね。
しかして彼は立ち止まって、眺めた。
少しの間。
次いで瓶を傾け、飲み干した。
考える……初恋はやっぱり、パン屋のお姉さん?
包容力があって、優しくて……きっと、本当はそんなタイプが好みなのだろうと思った。
私とは違う。でも離さない。
「座ったら?」
「……ああ」
力が抜けたように椅子に座り込む。後ろに回り込んで、のぞき込んで、口の周りについた牛乳をタオルで拭った。
されるがままの姿を見て思う。
ふわふわの髪の毛。筋ばった首筋、素直すぎる表情。
……大型犬?
大型犬!
椅子ごと抱きしめて、頭を撫でた。すると瞼が閉じる音。
静かな世界で、街の喧噪が遠く聞こえた。
「……あー」
声に誘われて再び覗き込むと、バツが悪そうな顔をしていた。
首をかしげ、正面から抱きつきなおす。
椅子が音を立てて軋んだ。
視線が絡み合う。見つめる瞳が、揺れる。
「お姉さんに言いたいことがあるのかしら?」
「……おねえさ……いや今はいいや……悪かった」
何に対して謝られたのかわからず、瞳を瞬く。
「さっきの、あんたに、言った、訳じゃない、から」
目を反らした。タバコの残り香。くちびるに息がかかる。
時計が刻む針の音。
胸がいっぱいになった。
「うん、わかってる。それに私、静くんになら殺されてもいい」
だから悲しい顔をしないで。
言って微笑むと、泣き出しそうに歪んだ表情。
「……俺は殺したくない」
気づく。
瞳の中で降る冷たい雨が彼を苛める。
永劫に続く長雨は止まない。
だから私は抱きしめた。
「じゃあ殺されてあげない。私、静くんが思ってるより逃げ足早いんだよ?」
「なんだよそれ」
声をたてて笑って、耳元にくちびるを寄せた。
「静くん、大好き」
私、もうあなたがいないと呼吸すらできない。
* * *
家に帰ったら猫がいた。
いや、違う。猫じゃなくて猫耳が……でも猫みたいに可愛……なんでもない。
じゃあ本物か?
いやいやいや、落ち着け俺。どうみてもこれは人間だろうが。
というか、
「おかえりなさいにゃん」
静雄は玄関で、猫耳をつけた同居人の襲撃を受けていた。
上目づかいで「にゃーん」と語尾にハートマークを飛ばす年上の女。
・
・
・
静雄は焦った。
わけもなく走り出したい気分がした。
でも猫耳は無視して、すりすり。
混乱は人を意味不明の行動に導くと誰かが言っていた様な気がする。静雄は怒り以外で自分を見失ったことがなかった。
今日までは。
テンパった彼は、顎を摩り上げる様に撫でる。
「くすぐったいにゃ」
いやーんとさらにすり寄る。
その時、走馬燈が見えたと後に語る───そして彼は普段なら絶対にありえない行動に出た。
「きゃっ」
頭を撫でながら、喉をくすぐる。
笑い転げながら、身をよじるにゃんこ。静雄はそれを壁際に追いつめた。
『猫耳をつけた女に強引に迫るバーテン服の男の図』
そしてじゃれあいが最高潮に達した瞬間、無表情の美青年が顔を出した。
「兄さん、お帰り。おじゃましてます」
「か、幽……!?」
久方ぶりに会う身内は相も変わらず。
静雄は頭の奥に冷たい水を流し込まれたように感じた。
兄のプライド。
かつて味わったことのない羞恥に、彼は破壊音と共に部屋を飛び出した。
幽は無言でそれを見送って、彼女に一礼する。
「兄は多分帰ってこないと思うので、これで失礼します。……ドアの修理は俺から依頼しておきます。おじゃましました」
「え、あ、うん。ありがとう。また遊びに来てね」
「はい、義姉さん」
無表情に微笑む美青年の言葉に、彼女の顔が沸騰したやかんのごとく染まった。
(静雄は臨也を殴りに行ったようです)
* * *
「一人で家を出る→現実」
「静くんと出る→あっちの世界」
故に静くんが出かけたあとこっそり後をつけたり、一人であの池袋を遊び歩くことはできない。
たぶんルール、みたいなものなのだろうと思案した。
疑問は絶えない。
例えば家に静雄がいない時に、彼宛の訪問者が来たらどうなるんだろう?とか、しかしそれはあっさり氷解した。
「はーい」
チャイムの音に玄関に駆けて、のぞき穴から見た。宅急便だろうか。
でも違った。
驚きに、勢いよくドアを開ける。
すると彼は無駄のない動作で迫りくる扉を避けて、首をかしげた。
髪がサラサラと風に舞う。
優美という言葉がぴったりの青年。完璧な美貌は微動だにしなかった。
似ている。
すぐにわかった。
「羽島幽平……平和島幽くん……?」
「はい、こんにちは」
「こんにちは。え、と……静くんは仕事で、外なんですが」
「そうですか」
すると淡々と紙袋を差し出す。
「以前兄が気に入っていたので」
お菓子?
地方ロケのお土産かな。
ふーん、静くんって甘いもの食べるんだ。
勢いで受け取って、お礼を言った。
すると彼は首を静かに横に振って、最後に問う。
「ところであなたは誰ですか?」
虚をつかれた。
それ、最初に聞くことじゃないのかな。
「コーヒーでいい?」
「はい」
とりあえず中へどうぞ、と招き入れて、テーブルを挟んで向かい合う。
香ばしい匂いが部屋に満ちた。
「……おいしい」
「ほんと? 良かった」
にっこり微笑むと、雰囲気が緩んだ。
「それで私が誰かって質問だけど」
「はい」
「一言で言うと、静くんと同居している人……かな」
「そうですか」
「驚かないの?」
問いかけ、優雅にカップを傾ける姿を待った。
「とても驚いています。兄にあなたみたいな人がいるなんて知りませんでした。今は天変地異が起こって右往左往している気分です」
抑揚のない声で語る。
少し考えた。私と静くんは『そういう関係』なのだろうか?一般的な恋人とは違う二人。かけ離れた出会い。普通とは言いがたい私たち。
しかし待つ視線に気づいて、考えるのをやめた。
せっかくだし、『そういうこと』にして、調子にのってみよう。
「私のことはお義姉さんって呼んでね」
えっへんと胸を張る。
時間は静かに流れ、幽くんは小さく頷いた。
この後、静くんの好きなものを聞き出したり(猫だった)、ドンキに猫耳買いに走ったり、冗談のつもりだった「お義姉さん」発言に照れたり、静くんがしばらく口きいてくれなくなったりと色々あったけど、それはまた別の機会に。
* * *
彼女はいつだって唐突だ。
「お花見をしよう!」
「……散っただろう」
「なんとなく残ってるもん。それに桜は散り際も綺麗だから大丈夫!」
なにが「大丈夫」なのかわからないまま、子供みたいな仕草で手を引かれる。
指先が絡んだ。
「ね? 静くんと見たいの。……お願い」
あざとい角度で見上げる視線。
それがただの気まぐれにすぎないと理解しながら、静雄は鼓動が早くなるのを止められなかった……丸め込まれた。
しかして深夜、家を出る。
───これが二人の初めてのデートであることに、彼はまだ気づかない。
ジーパンに長そでのTシャツというラフな恰好に着替えて、支度を待った。
「お待たせ」
そして目を見張る。
薄化粧をほどこした肌は普段よりなめらかで、ぽってりとくちびるにのせられた紅が彼女の愛らしさを引き立てる。ジーンズ地のショートパンツが細く引き締まった足を際立たせ、襟ぐりの空いた薄手のニットから覗く鎖骨が艶かしく映った。
「どこか変?」
心配そうに自分の身体を調べ始めた彼女に呟く。
「いや……そんなことない」
「良かった、じゃあ行こう」
差し出した手に躊躇して、
「ん?」
見つめる瞳に戸惑った。
「静くん」
「……ああ」
春先とはいえ夜気は冷たい。だが小さなてのひらから伝わる熱は暖かくて、優しかった。
「ふふっ」
「なんだ?」
「内緒」
いつからだろうか。
心が凪ぐ。ほかの人間に言われたら一瞬にして怒りの頂点に達してしまうような言動でも、彼女だとそうはならなかった。
「並木道歩きたい!」
声は耳に心地よく、軽やかに響く。
思って、静雄は笑った。
「え……」
「なんだ?」
「なんでもない」
彼は気づかない。
彼女が手を強く引いて、前を向いた理由を。
紅潮した頬を隠した。図らずも見た穏やかな笑顔に見惚れた。
その時生まれた感情の名前。
・
・
・
今年最後の桜が散る。
薄紅の風にのって、溢れた想い。街の喧噪は聞こえない。ふたりはいつまでも手をつないで並木道を歩き続けた。
「ん?」
「花びらが口についてた」
「静くんありがと」
彼女が微笑む、彼が目を反らす。
それは「普通で」、池袋に住む人々が描く「平和島静雄」という人物のイメージからほど遠い。だから彼だけが気づいた。
「あれって静雄だよな」
特徴的なドレッドヘアー。
静雄の上司であり彼の扱い方を心得た人物。田中トムは開いた口を閉じると、ひとりごちた。
「あいつにも春が来たのかね」
二人に声をかけることなく踵を返し、喧噪に紛れた。
口元には今にも口笛でも吹き出しそうなほど楽しげな微笑みが浮かんでいた。
* * *
*シリアス
深夜桜並木のトンネルを歩いた。
人工的な光に照らされ散りゆく花。絵画のように美しすぎて、いっそ気味が悪いと感じた。現実感を伴わない感覚。
頭の中でチカチカと警鐘が響いた。
だが傍らで、鈴が鳴るような笑い声が聞こえる。
不快感は嘘のように消えた。
「昔友達が言ってたんだけど」
彼女が柔らかく微笑む。
その儚さに静雄は思わず手を伸ばした。
「私、最期は桜みたいに潔く散りたいな」
でも届かない。まるで空気を掴んだみたいにすり抜けた。
何度も、何度も、何度も。
「なんて、みんな驚いてたけど、私思ったの」
彼女の腕が、身体が、髪が薄紅の花弁に変わる。
ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり。
視界を埋めて、覆い隠す。
「それもいいかもって」
「おい」
「だって静くん……」
「待て!!」
無理矢理振り向かせようと掴んだ。
すると今度はすり抜けず、
「こんな風に壊れるよりはましでしょ?」
それはもう人の形をなしていなかった。彼に壊され、引きちぎられた、それは……。
・
・
・
そして悪夢から覚める。
伸ばした腕は夜の闇に向かってまっすぐに。
「……くそっ」
握りしめた拳から一筋、血が流れた。
* * *
「寒い、寒い、寒い」
春が来た!希望の春が!……と思ったら急に冷え込む気候にプルプルした。
仕方ないのでソファーに深く腰掛ける静くんを組み伏せるように抱きしめる。
だって彼は暖かい。多分、基礎代謝が高いのだろうと思考した。
「……っ」
「寒いー!!」
「上着、羽織れ」
「だってもうしまっちゃったんだもん」
言葉に反論して、首筋に顔を埋めた。……ぬくい。でもまだ寒かった。
脇に手を差し込んでソファーと静くんの背中に挟む。ちょっとだらしないかと思ったが背に腹は代えられない。彼の膝の上にまたがって足を開いて乗った。
「寒い……寒い……」
「おい、寝る時どうするんだよ」
微妙に見当はずれなことを言う。
しかし確かに、お布団……お布団は冷たい。冷たいは寒い。
妙案を思いついた。
「静くんと一緒に寝る!!」
「寝てたまるかぁーーー!!!」
急に立ち上がるものだから、ひっつくのに苦労した。
無理矢理剥がされそうになるのに抵抗する。
「離れろ!」
「いやー! 私一生静くんにひっついて生きるって決めたんだから無理ー!!」
「いいから離れろ」
振り落とされないように首をがっちりホールドして、身体に足を絡めた。静くんも本気で剥がしにかかってるわけではないのだろう……全力だされたら冗談抜きで腕が取れる。
それにしても……なんかこの体勢……。
「おま、何言ってるんだ!?」
「あれ? 口に出てた?」
静くんは顔を真っ赤にしたかと思うとソファーに座り込んだ。
「静くーん、おーい」
ネコ耳事件に引き続き、小一時間ほど無視された。でもおかげでその夜暖かく過ごせたのでま、いいかなと。
(ヒロインは鬼か!と書いてる人ですら思った一話)
* * *
世界がゆっくりと揺れていた。心地よくも不快な酩酊感。
私は勢いよく扉を開く。
「静くんただいまー!!」
「おっ!?」
玄関先だというのも構わず、全力で抱きつく。
こういう時、静くんはすごいと思う。だって不意をついたのに微動だにしない。
細くて堅い胸元にすりすりした。
「静くんはずるいと思いますぅー」
「酒くせっ、今何時だと思ってんだ?」
「十時くらい?」
「一時だ、一時!!」
「なんだまだお昼じゃない」
「んなわけあるか!!」
頭上から怒声が響いて、くらっとした。安心したら力が抜けたみたい。
座り込みそうになった瞬間、抱き上げられる感触がした。
「静くーん」
「首に顔うずめるなっ」
「好き、好き、大好き」
彼は一瞬足を止めて、深くため息をついた。
腕の中は揺りかごみたいに心地よい。私はそのまま夢の世界に没入した。
・
・
・
帰ってくるまで待っていてくれたことに気づいたのは翌朝だった。
目覚め、未だ抜けないアルコールに頭を抱えた。
「気持ちわる……」
髪をかきあげ、のろのろ起き上がる。
部屋を出ると、
「手紙?」
ミネラルウォーターとお皿にちょこんとのった梅干し、一枚のメモ書きがあった。
『仕事に行ってくる。今日は寝てろ』
「……静くんって……」
指先で赤い果肉をつまみ、口に放り込む。強烈な酸味が口内を襲った。
すっぱい、と呟きながらペットボトルの蓋を開ける。
「はぁ」
思わずテーブルに突っ伏する。
「参るよね……ホント」
呟いて梅干しの残りを口に入れた。
* * *
泥酔して眠り込んだ彼女を抱えて、寝室に入る。
そして感じた女性独特の甘い香りに足を止めた。
「……いい気なもんだよな」
腕の中で眠る女に小さく毒づいた。
女性としては平均的な身長に、少し細すぎる四肢。だがこうして直に触ってみるとわかる───かなり鍛えている。
それは普段の身軽な物腰からも知れた。
だが、
「……俺は知らない」
この不思議な現象も、彼女が自分を「好き」だと言う意味も。
何の仕事をしているのか、どんな風に育ったのか。
何も知らなかった。
だけど、留めることができない。溢れ出す、爆発しそうに疼いた。
肌に触れたい。
もっと奥まで、すべてさらけ出して蹂躙したい。
心も身体も全部欲しかった。
───愛して、許して欲しい。
寝台に手をかけ、丸まって眠る彼女に伸しかかる。
瞬間、睫毛が揺れ、柔らかいくちびるが囁いた。
「……静くん……大好き」
溢れた微笑み。
甘いくちびる。欲しい。あと数ミリで奪える。
だが静雄は理性を総動員して離れた。
「……俺、何やってんだ」
うずくまって、座り込んだ。
彼女に惹かれている。
それが愛だと、とっくに気づいていた。
だからこれ以上は進めない。
大切にできない自分には欲望のまま全てをぶつける資格など、ない。
「静くん……」
だけど縋る様に伸ばした手が、彼女に触れ、寝ぼけながらも握り返した熱に、泣きたくなった。
* * *
さながら黒いレッドカーペットのようだと思った。
影はビルを垂直に駆け下りる。
『首なしライダー』
二次元の存在が実体を伴って世界を席巻する。
彼女はそれを群衆の端から眺めていた。
驚愕の雰囲気から離れて、鼻歌でも歌い出しそうに楽しげな表情で。
「正直驚いているよ」
折原臨也と竜ヶ峰帝人の真横をすり抜けて、セルティ・ストゥルルソンが矢霧誠二に刺されたことすら気にせず、
「静くん!!」
先ほどまでが嘘の様に人影がまばらになった60階通りで、彼女は愛しく微笑んで、手を振った。
* * *
田中トムは困惑していた。
別に羨ましいとか、やっぱり弟とツラだけは似てるからモテるのか、とかそんなことでは───まったくないとは言わないが。
ロシア寿司の店内で、目前の男女に目をやる。
「静くん、ほっぺにご飯ついてるよ」
「マジか?」
「うん、ほら」
甘い、わさびですら至上の甘味に化けてしまいそうだ。
女は静雄の頬に手を当て、引き寄せる。次いで行った行動に彼の混乱は加速した。
「おわっ! トムさんの前ではやんなっつっただろ」
「そう?」
愛らしく首を傾げる。
頬を舐めて米粒をとった───実際はそんなものなどついていなかったことにトムはもちろん気づいていた。
平和島静雄との出会いは中学時代に遡る。高校は違ってしまったが、その後再会して仕事を手伝ってもらっている「ツラは弟と似てるんだから静雄にもいつか可愛い彼女ができるさ」そんな趣旨の発言をしたこともある。思っていたことは嘘ではない。だが、
「静くん、玉子好きだよね? はい、あーん」
「バカ、やるかっ」
「あーん」
「……」
「じゃあトムさんに食べてもらおうかな」
「……食べる」
頬を照れに染めて、口を開く後輩が視界の端で見えた。
それにしても今日もロシア寿司はうまいな……現実逃避をはかる。
「お前こそ米粒ついてる」
「どこ?」
「……取れた」
指で摘んだそれを何の抵抗もなく口に入れる。
そんな光景は小一時間目前で繰り広げられ、解放された時神の存在を信じた。
「……こいつにまで奢ってもらってすいませんでした」
「ごちそうさまでした」
髪が肩口をさらりと流れる。
品よく一礼した彼女。
ふと沸いた疑問に、トムは静雄にだけ聞こえる様に問いかけた。
「彼女、もしかして年上か?」
「……そうっす」
それ以上は追求せず、「そうか」と言うに留めた。
「……はぁ」
照れを隠す様に頬を掻いた静雄に、苦笑する。
「じゃあまた明日な」
「……はい」
店頭で別れを告げる。
振り返ると、彼女が静雄に手を差し出すのが見えた。
「俺も彼女作るかな」
ひとりごちて、夜の町を歩き出した。
* * *
今日も今日とて静くんに抱きつく。
最初の頃は怒ったり、ひっぺがされたりしたけれど、最近は特に抵抗されない。それをいいことにソファーに腰掛ける静くんに後ろから抱きついてスリスリした。
「静くん」
「なんだ?」
「好き」
耳元で囁く。すると一瞬止まる煙草の煙。
私は彼の首筋に顔を埋めた。
「別に答えを求めてるわけじゃないから」
抱きしめる腕に力を込める。
「……でもよ」
「いいの、ところで!」
「なんだっ!?」
突然の大声に振り向く静くん。
「えい☆」
頬にキスを落として、「根元プリンになってるよ?」と囁いた。
「……ああ」
頬を僅かに染め、誤摩化す様に髪をかき混ぜる。
次いで、「やっぱり目立つか?」とばつが悪そうな顔。
「金髪ってどうしても目立つよね……ということで私が染めて差し上げましょう!」
「……買い置きないぞ」
「じゃじゃーん! なんと買っておきました!」
「……準備いいな」
呆れた様に、だけどほんのり嬉しげに。
可愛かったので頭をひと撫でして、染髪の準備のため立ち上がった。
* * *
今日は朝から静雄の様子がおかしかった。
普段なら即座にキレる客の言動にも三杪は我慢出来た───明日は雪でも降るのだろうか。
トムは思案して、腹部に手を当てる。
「腹減ったな。昼飯どうする?」
「……公園でもいいっすか? あ、弁当は買わなくても大丈夫です」
静雄は平静を装って言った。
しかしトムはその一言と朝から大事そうに懐に抱えていた包みを見て、合点がいったように頷く。そしてそろりと出された二つの手作り弁当に、自らの予感が当たったことを知ったのだった。
「普段食べてるものを話したら、なんか怒られたんす」
「まあファーストフードかカップ麺だしな」
膝の上に広げられた色鮮やかな弁当に深く頷く。
公園のベンチですら、今の静雄にとっては高級レストランよりも輝いて見えるのだろう。
……待てをされてる犬みたいだもんな。
「じゃあ、いただくとするか」
「はい」
静雄は手を合わせ、「いただきます」と呟き箸を持ち上げた。
その時、
「借金取り、死ねぇえええーーー!!!」
鉄パイプが後輩の頭を直撃する。
そこまでは問題ない、いやあるが、静雄だから大丈夫だろう。
だが、
「てめえぇええ!!! 殺す、ブチ殺す!! メラっと殺す!!」
衝撃で弁当箱がひっくり返った。
それはスローモーションのごとく映った。
次いで驚愕の表情。
トムは自分の弁当を確保すると、急ぎ退避した。
そして鉄パイプの男が適度にボコられたのを確認したあと、声をかける。
「静雄、半分やるからそんなところにしとけ」
「……いやトムさん、こいつは完全に殺すべきです」
標識を担ぎ上げた静雄を宥めて、自分の弁当箱を差し出した。
背中がすすけて見える。
しかし静雄は首を横に振ると、逆さまになった弁当箱を拾い、砂を払って卵焼きを食べた。
「……うまいす」
「そっか」
「……はい」
意気消沈した後輩の肩を叩いて、もう一度自分の弁当箱を差し出した。
* * *
首都高五号池袋線高架下。サンシャイン60通り。
夕闇を引き裂いた馬のいななき。
振り返る。
すると墨を流したように真っ黒なシルエットが通り過ぎるのが見えた。
「え……?」
私は買物袋を取り落とす。
歩道に転がった食料品に目もくれず、通り過ぎた影を見つめた。
すると、
「綺麗なおねーさん! どこから来たの。あれれ食品の買い物途中ってことは地元の人かな? 黒バイクを見るの初めて? ならば今日、この瞬間お姉さんと運命の出会いをしたこの俺、紀田正臣が教えて差し上げましょう! 所謂愛のお茶タイムの始まりってやつ?」
明るい髪の少年がニコニコと、零れた食品を拾っていた。
瞳を瞬く。
そして理解した。
「ありがとう、でもこれから夕飯を作らないといけないから……一人分には見えないでしょう?」
ゆるり、微笑む。
次いで聞こえた、「正臣ー!」という声。目前の少年が振り向くのを確認して、背を向けた。
「帝人、おまえのおかげでナンパしそこなったじゃないか。責任とれこの野郎」
「えー!? ナンパできなかったのは自分のせいじゃないの?」
掛け合い漫才を背中で聞き、買物袋を眺めた。
震えている。
指先が小刻みに揺れていた。
「そうなの……」
生暖かい風が髪を揺らす。
再び視線を落とせば、震えは収まっていた。
「世界が混ざり始めている? ……いいえ」
ひとりで家を出た。
自分の世界で買い物をしたつもりだった。
だがセルティ・ストゥルルソンと邂逅し、来良の二人と出会った。それはつまり、
「私がこの世界に取り込まれ始めている」
胸一杯に息を吸い込む。
狭い、狭い、都会の空。
眺めて吐き出した。
「……選べってこと?」
「リッパーナイト」まであと少し。
奇跡を起こした神様は、私に選択を迫っている。そんな気がした。
「私の世界か、静くんか」
前者を選ぶなら、あの部屋から出て行けばいい。
後者を選ぶなら、何もする必要はない。
ならば───私の答えは……。
* * *
静雄は目を剥き、叫んだ。
「避けろ!!」
今日もまた、理屈を並べ立てたやつがいた。
静雄はキレた。
投げ付けた自販機。
それは日常の風景。
しかし何の因果か、目標から逸れてしまった。
直撃コースには、きょとんとした表情で佇む女。
彼はそれが誰であるかに瞬時に気づき、悲鳴とも怒号ともつかない叫び声をあげた。
「───!!」
手を延ばした。
───悪夢が甦る。
彼女を他ならぬ自分が傷つけてしまう。
心臓を冷たい手で掴まれる心地がした。
だが次の瞬間見たのは、潰され大けがを負った彼女───ではなく。
「は?」
とん。
地面を横に飛ぶ。
だが避けきれない。
すると飛び来る自販機の側面を蹴った。推進力が増し飛び出した身体は地面につくなり前転して、難なく立ち上がる。
「……なんだ?」
掠れ声で呟く。
彼女の遥か後方で自販機が壊れた鉄のかたまりになっていた。
「びっくりした!」
言って軽やかに微笑む顔に、視界が滲む。
慌ててサングラスを深くかけ直し、歩み寄った。
「怪我、してないか?」
「全然」
「本当に?」
「してないよ、ほら!」
言って鈴が鳴る声で笑う。そして抱きつく柔らかい身体。
「ね? どこも怪我してないでしょ」
「……ああ」
「前に言ったじゃない、逃げるのは得意なの、って」
悪戯っぽく笑む。
思わず抱き上げると、甘い香りがした。
女の肌の匂い。
だがこみ上げた罪悪感にすぐさま離す。
「……悪い」
「何が?」
「……だって、怖いだろ?」
呟くと、笑顔は一転して眉間に深いシワが刻まれる。
怒った顔も可愛い───静雄は過ぎった思考におもばゆく、頬を掻いた。
しかしくちびるが紡ぐのは辛辣な愛情。
「静くんひょっとして馬鹿なの? これくらいで怖がるくらいならそもそも一緒に住まないし、しかもちゃんと避けたじゃない、一体どこ見てたの?」
「……でもよ」
「でもじゃない!」
「……本当に?」
「いいに決まってるでしょ」
しかめっつらを突き合わせ、見つめ合う。
間が持たず目を反らした瞬間、口に当たった感触。
「おま……っ」
次いでめいいっぱい背伸びして、彼女は耳たぶに囁いた。
「離れたくないのは私なの。……側にいさせて」
赤く染まった耳。
小さな身体を抱きしめた。
状況を全てを忘れ去って。
「……ああ」
静雄は頷いた。
『たたた、大変だ。静雄が、キスで、女の子が自販機を蹴ったぁー!!』
「セルティー帰ってくるなりどうしたのさ? でもそんな君もかわい…ごぶあぁー!!」
・
・
・
「あれって静雄……だよな? あいつと付き合える女がいたんだな……」
「えーシズちゃんってイザイザにボーイズにラブってるんじゃないの!?」
「さすがに狩沢さんでもそんなこと聞かれたら大変っす」
「だって萎えー」
「それを萌えに転換するのも俺たちの使命でしょ。しかもちょっと二次元っぽい女の人だったから俺的に萌え要素満載っす!」
「NLかぁ。じゃああの人が攻めでシズちゃんが受け? シズちゃんって××××しいよね」
「それよりも俺を主人公にしたハーレムのヒロインの一人になってほしいっす」
「……お前ら、静雄に聞かれたら本気で殺されるぞ」
「「萌え? 萌え! 萌え、萌え、萌えー!」」
「てめぇらたまには人の話を聞きやがれ!!」
・
・
・
「おい……聞いたか静雄が女と抱き合ってたらしいぜ!?」
「まじか!?」
「おう、マジマジ。抱き潰してるのかと思ったほど激しかったらしいぜ」
・
・
・
「おい、聞いたか!? 静雄が女を抱き殺したらしいぜ」
「聞いた、聞いた。しかもすっげーいい女だったらしいな!」
・
・
・
「おい……聞いたか静雄が女を殺したらしい」
「モデル系美女だったってな」
「マジか、静雄すげぇ。つーかもったいねぇ」
・
・
・
そして世界は音を立てて歪み、彼女は選ぶ。