蝶の落ちる音

異能(ちから)を使うと決めた日からわたしは一つの夢を見始めた。それは、「凍原に咲く雪花」祖母の記憶であり璃桜の執着の記録であった。


そして時は流れる水の様に過ぎ去り、夏が来る。










わたしはいつも通りに出仕し、州牧室に足を踏み入れた。厳しい日差しに目を細め、今日は冷茶を用意しようかと思案していると、


「燕青!」


悠舜様の大声に目を見開いた。
珍しく取り乱した様子の彼に思考が追いつかない。瞬きをぱちくりと数回瞬かせた後、旅支度を整えた燕青を見上げた。


「なにその格好? このくそ忙しい時期にどこへ行くつもり?」
「あー、ちょっと貴陽へな」
「は!?」


思いもよらぬ言葉に、空いた口が塞がらない。


「……まさかとは思うけど、仲障様から州牧辞めろって言われたから辞めるなんて言わないわよね!?」
「いやー」


鼻の頭をぽりぽりと掻きながら笑う姿に一抹の不安が過る。


「本気なの?」


精悍な横顔に鋭い視線を投げつけた。しかし燕青はそんなことにも構わず、


「元々正式な州僕じゃなかったわけだしな。 貴陽にこれ届けたらまた師匠について武者修行でも出ようかと思ってる」


軽い仕草で州牧印を叩く姿に目の前がまっ白になった。慌てて悠舜様を振り返るが、彼もまた諦めきった様に首を横に振るばかり。
その様子を苦笑いを浮かべながら見ていた燕青がぼそりと呟いた。


「悪い、な」


その言葉に含まれる"本気"に目の前が真っ暗になって瞬間、わたしの中で何かが弾けた。


「謝って済む問題じゃないでしょうが! 燕青の馬鹿!!」


そして室に風船の割れたような大音声が響き渡る。わたしはジンジン痛み始めた手のひらを振りながら、頬にくっきりと手形のついた燕青を睨み上げた。悠舜様の見張った視線がちょっと痛い。


「燕青なんて大ッキライ! ちょっとでも元彼に似てるなんて思ったわたしが馬鹿だった!」


「え!? ちょ……それどういう意味!?」と焦った声で問いかけてくる燕青を尻目に州牧室の扉を勢いよく閉めたのだった。









邸までぷんぷん怒りながら駆け戻りそして、少し冷静になった頭を抱えた。「はぁー」と深いため息をつき、門扉の前にずるずると座り込む。
 この邸に訪れる客人は最近格段に減った。ましてやこの裏門を使う人などほとんどいない。つまり人目を気にする必要がない。
風が吹いて、髪がゆったりと舞う。ざわざわと歌う梢の音に耳を澄ませ、大きく息を吸い込んだ。
そして、


(言い過ぎたかな)


少し落ち込み、元の世界の記憶に思いを馳せる。
思い出してみればここで燕青が州牧をやめるはずは無い。たしか秀麗に感化されて帰ってくるはずだ。
怒る必要はなかった、しかし彼の言動の何かに引っかかりを感じる。
吐き出す様に大きくため息をついた瞬間、


「あれ? さん、こんなところでどうしたんですか?」


克洵さまの声に慌てて立ち上がった。すると駆け寄る彼が目に映る。


「春姫さまに会いに来られたの?」
「ええ、はい。 あの、綺麗な花を見つけたので春姫にと思って」


気弱な仕草で差し出した花は可憐で愛らしい、彼女みたいな花だった。
思わず笑みが溢れる。


「お喜びになりますわ」


見上げて微笑むと、克洵さまははにかみ笑いを浮かべた。そしてもう片方の手を開く。


「実はさんに似合いそうな花も見つけたのですが……」
「わたしに?」


虚をつかれ、小首を傾げた。すると彼は顔を真っ赤に染め、照れた様に深紅の花を差し出した。


「……まあ……」


凛とした印象を持つ花だった。嬉しくなって髪に差してくるりと一回り。


「似合いますか?」
「はい……とても……」


彼の好意と気遣いが嬉しくって笑顔が零れた。すると克洵さまはぴしりとその姿勢のまま固まる。


「……? お約束があるのでしょう? あまり待たせてはいけませんよ」
「あ……はい」


克洵さまは何かに取り憑かれた様に彷徨わせていた視線を正気に戻し、一歩踏み出す。
――そして着物の裾を踏みつけ転倒した。
なんてお約束な人なんだろうと思いつつも慌てて手を伸ばす。


「克洵さま!!」


抱きとめ、しかし勢いを殺しきれずそのまま尻餅をつく。
……一見するとまるで克洵さまに押し倒されたみたいだ。


「ごごごご、ごめんなさい!」
「いえ、お怪我はありませんか?」


見上げるとくちづけでも出来そうな至近距離で鳶色の瞳と視線がかち合う。
ごくりと喉のなる音が聞こえた。
一陣の風がわたしたちの間を吹き抜ける。
早くどいてくれないかなーと思考し、ふと感じた視線に振り返る。するとそこには涙目の春姫さまが立ち尽くしていた。


「しゅ、春姫ー!? こここここれは違うんだー!!」


しかし彼女は口元に手を当て、踵を返し走り去る。克洵さまは慌てて立ち上がろうとし、そのまま転けた。


「ちょ、克洵さま! 落ち着きなさい!」
「は、はい!」


肩を押し返し、無理矢理立ち上がらせる。そしてどよーんと沈み込む彼を一喝する。


「何やってるんですか! 早く追いかけなきゃ春姫さまがどこか行ってしまうでしょう!」
「で、でも……」
「でももヘチマもありますか! さっさと追いかけなさい!」


慌てて立ち上がり、走り出す背中を見送った。










(ま……これも青春ってやつよね)

こんなことで壊れるほど二人の絆は脆くない。と思う……多分。
わたしは着物についた砂を払い、英姫様の室に向かって歩き出した。





「貴陽へ使いに参れ」

衝撃的かつ、絶対的な命がくだされることを知らず。