年下の男の子、年上の女の子

インターハイ前編

神奈川県藤沢市、江ノ島。
相模湾沿いに長く続く海岸線に唯一突き出た小さな島は、普段は情緒漂う観光の島としてにぎわっている。
生しらす丼にサザエの壺焼き、タコせんべい。半日あれば事足りるこぢんまりしたところが好きで時々遊びに来る。
しかし今日は普段とは違う、熱狂的な雰囲気が島を包んでいた。
インターハイ自転車ロードレース。
高校の大会にこんなにたくさんの人が集まるものなのかと感嘆の息を付いた。次いで額から流れ落ちる汗を拭う。

「蒸し風呂みたい」

選手はこの中を走るのだ。
売店で買ったアイスを食べながら道行く人々を眺める。隼人君から絶対来て欲しいと念押しされた今年のインターハイ。
一日目と二日目は無理かも、と返したら無言で見つめられた。
耐えきれずわかった、有給申請してみる! と叫んだら、厚い胸板に抱き潰された。あいつは力加減ってものを知らない。
こうしてお局様の冷たい視線に耐えて休みを勝ち取った。でも当日になると、無理してでも来て良かったと思う。三日目だけしか見に来なかったら後悔していたかもしれない。
開会式は終わったみたいだし、スタート地点でレースが始まるのを待とう。
歩きながら、色とりどりのユニフォームを眺め、並ぶロードレーサーの数に驚いた。
みんな早そう、でも隼人ほどじゃないかな。そんなことを考え口元を緩めた。
その瞬間、ドン! という衝撃を背中に感じ前のめりに倒れる。

「きゃあ!?」
「わわっ!」

膝と手をついて顔面強打を防いだ。とはいえ短パンのせいで、膝小僧擦りむく。

「いたたた……」

年寄りじみた声で起き上がろうとすると、手がさしのべられる。ありがたく借りて立ち上がった。そして顔を上げ相手の風体に驚く。

「どーも……後輩がすいませんシタ」

目が覚めるような緑の髪に赤いメッシュの長髪。ジャージを着ていることから、どこかの学校の選手なのはわかる。でも派手だ。
数回彼の顔を見つめたまま瞬きをした後、慌てて頭を下げる。

「こちらこそ、ぼんやりしていてごめんなさい」
「ちちちちがうんです! ボクがぼーとしてて、あの……すいません!!」

玉虫色の少年の影から眼鏡の男の子が勢いよく飛び出してきて、何度も頭を下げる。どうやら彼とぶつかってしまったらしい。
薄く微笑んで、覗き込んだ。

「大丈夫だよ、こっちこそごめんね?」

すると、眼鏡の少年は化石のごとく固まり焦点の合わない目線で私を見た。次いで火が付いたように顔を真っ赤に染め上げ、後ずさる。

「ま、巻島先輩! 妖精さんが!!」
「小野田……言いたいことはわかるっショ。ケド落ち着け」

玉虫色の少年に背中を叩かれる眼鏡っ子。仲よさ気な雰囲気に声を立てて笑った。

「仲が良いのね。ジャージを着てるってことは選手?」
「そうです。あー、あなたは?」
「応援。彼氏……の弟がインターハイに出ているので」
「へえ」

彼氏と言いかけて訂正した。
あとで隼人にバレたら怒られそうだけど、初対面の男の子達に年下好みのおばさんだと思われたら嫌だし。

「ちなみにどこの……」

玉虫少年が言いかけたその時、彼らを呼ぶ声が聞こえた。

「あっちゃー金城が呼んでるっショ。行くぞ小野田」
「はい! あの、本当にすいませんでした」
「平気平気、君たちもがんばってね」

ヒラヒラと手を降ると、二人揃ってぺこりと頭を下げて立ち去った。
彼らの姿が見えなくなったのを確認してからハンカチを取り出し、軽く膝を拭う。少しヒリヒリするけど特に問題はなさそうだ。
そうしてスタート地点付近の沿道で選手達が走り出すのを見送る。
これだけ人が多いと気づいてもらえないかと思ったけど隼人はきっちり私を見つけ、ウィンクしてきた。熱くなった頬を両手の平で冷やして、器用だなぁと感心する。
周囲の女の子数人が悲鳴を上げて倒れたのは熱射病かなととぼけてみた。……違うよね、箱学って書いたうちわを持ってたし。
隼人のファン?
格好いいし、自転車競技部名門のレギュラーだし、人気があるのが当たり前。
わかってはいても胸の奥が重くなった。

応援ポイントを先回りしてレースを見守る。
どの選手も真剣で、熱くて、このレースにかけているのを感じた。
結果、三チーム同着。
隼人の箱根学園と総北高校、そして京都伏見。
それぞれの健闘に拍手を送った。
そうして、インターハイ二日目を迎える。
一日目は家に帰れる距離だったこともあり、宿を取っていなかった。二日目三日目は予約済み。だけど今になって一日目も宿を取るべきだったと後悔した。観戦で疲れている中の早起きは辛い。
重い身体を引きずり二日目のスタート地点へ向かう。
携帯を開いて隼人のメールに返信しながら、灼熱の日差しを浴びた。昨日とは違うショートパンツに、膝には大きめのバンドエイド。
一日目と同じく活気に満ちた二日目スタート地点を見上げ、息を付いた。

「……暑い」

昨日は乗り切れたけど、結構キツい。
だけど今日は隼人が、何を置いても見に来て欲しいと言っていたレース。選手達がスタートしたら、スプリントリザルトラインに移動して応援をする予定だ。
気合いを入れ直し、拳を握りしめる。
でも、日差しは肌をジリジリと焼きアスファルトから跳ね返る熱が体力を奪う。気づいた時には身体に力が入らなくなっていた。
テントが並ぶ方へ行こうとして、まっすぐ歩けないことに気づく。
倒れる、そう思った瞬間、

「大丈夫ですか!?」

肩をつかまれた。次いで力の入らない身体を軽々抱え上げ、木陰に避難させてくれる。次いで渡されたボトルをあおるように飲んだ。乾いた身体に染み渡るスポーツドリンク。
数分座り込んでいると意識がはっきりしてきて、助けてくれた相手の顔を見上げる余裕ができた。
天然パーマなのだろうか? 緩やかなウェーブヘアが印象的な少年。彼に頭を下げてお礼を言う。

「ごめんなさい、どうもありがとうございます」
「いえ当然のことをしただけですから。それより大丈夫ですか?」

もう大丈夫です、と返すと熱射病を甘く見ない方がいいですよと忠告されてしまった。その通りなので、眉根を下げてごめんなさい。と謝ると。手をぶんぶん降って、偉そうにすいません! と頭を下げられてしまった。

「あ、ボトルもごめんなさい。あなたも出場校の人?」
「ええ、総北高校です」
「総北って、昨日の同着一位の?」
「はい!」

誇らしげな笑みに、頬が緩む。
次いで、忙しい時にごめんなさいと謝った。それに飲み物までもらってしまった。しかし天パ少年は微笑みを絶やさない。できた子だと感心していると、彼の背後から前髪で片目を隠した茶髪少年が現れる。少年は可愛らしい仕草で小首を傾げた。

「……?」

声には出さず、けれど不思議そな顔で私を見つめる。
ニコっと微笑むと、顔ごと目をそらされた。
ちょっとショックだ。

「青八木、悪いな時間か?」
「んっ」
「すいません、オレ達そろそろ行かないと」
「助けていただいて、本当にありがとうございました」

手を降って、もう一度お礼を言った。
彼らを見送った後自販機までゆっくり歩き、木陰で水分補給。しばらくそうしていると大きな歓声が響いて、二日目のインターハイの始まりを知らせた。

「……がんばれ、隼人」

呟いて、目を閉じる。
首筋を撫でるそよ風が気持ち良かった。


***


スプリントリザルトはすでに観客でごった返していた。
スプリントラインの手前は両側が観客席スペースとなっており、選手を見やすい作りになっている。とはいえここまで人が多いと場所取りに困った。
なんとかスプリントライン手前の観覧席を陣取り一息つく。隣には箱学のうちわと応援グッズを持った少女達が華やかな雰囲気を醸し出していた。和む、と同時に一抹の不安が過ぎる。
隼人と出会って二年が過ぎた。
身体の関係を持つようになってから一年、正式に付き合い始めて一ヶ月。
忙しいのに会いに来てくれる。メールは毎日来た。とても好いてくれているのはわかる。でも、それを一過性の愛情ではないかと疑っている自分がいた。
その感情はとても醜い。
彼は簡単に心変わりするような人じゃない。
だけど不安が拭えなかった。
年上だからなのか、私が私であるせいなのか。わからない。しかし隼人への愛情が深まるほど暗い感情も増していた。
本当は年が近くて、一緒に学校生活を楽しめて、例えばテスト勉強の文句を言ったり……そういう子の方がいいのではないかと考えてしまう。
それでも私は隼人が大好き。
誰にも譲りたくない。
ずっと傍にいたい。
ままならない気持ちにため息をついた。
ちょうどその時、スピーカーから選手がスプリントラインに近づいているという放送が流れる。一位が京都伏見御堂筋、二位が箱学新開──その言葉に凍り付いた。
彼はまだ、トラウマを完全に乗り越えたわけではない。
ロードレーサーには乗れるようになった、でもあの日以来、前を走る選手の左側を抜けなくなった。
ならば右を抜けという福富くんの言葉に救われ、ここまで帰ってくることができた。だけど、

「隼人っ」

胸元でぎゅっと両手を握りしめる。
祈ることしかできない自分の無力さが嫌になる。
暑さも忘れ、ひたすらに祈った。
残り五百メートル。
自転車が風を切り裂く音がした。
弾丸のごとくかけぬける二つの塊。
一瞬も見逃しまいと目を見開く。
隼人が鬼の形相で、前方選手の左側を抜いた。
鎖が切れる。
それは箱根の直線鬼が解放された瞬間。
隼人が前方の選手を追い抜き、トップに躍り出た。

「あ るるるるる あああああああ」

その雄叫びに涙が溢れる。
隼人がようやく本当の意味で、ロードの世界に戻れた。
相手選手の猛追により辛くもスプリントリザルトを取られてしまったのに歯がみしたけれど、信じている。
長らく箱根の直線鬼を縛っていた鎖はもうない。
ならば、今負けても最後は笑顔を見せてくれるはずだ。
私にできるのは信じることだけ。
だからゴール地点で彼を待つことにした。

そうして隼人はエースのアシストとして、二日目のゴールに現れた。
喉がカラカラになる。
全ての選手から漂う本気に、化粧が落ちるのも気にせず叫んだ。
そして、第二ステージを取り、男泣きする福富君と肩をたたき合う隼人。
トラウマと敗北を乗り越え、戦い抜いた姿に胸が熱くなった。
涙がどうしようもなく止まらなくて、ゴールに沸く観客席で泣きじゃくる。ハンカチは涙と汗にぐっしょり濡れてもう使い物にならない。
次々にゴールする選手たち。
止まらない涙。
昨日声をかけずに帰ったら文句を言われたから、せめて一声ねぎらいの言葉をと思っていた。しかし何を言えばいいのかわからないし、涙で酷い顔をしている。せめて化粧くらい直そうと、ゴールに背を向けた。
すると、低い美声に呼び止められる。

「ったく。声かけろっていっただろ」
「はやとぉ」

顔を見るともうダメだ。
歩み寄って、抱きつきたいのをがまんして、地面を見る。

「良かったね」
「スプリントリザルトは取り逃したけどな」
「うん……残念だったけど……でもすごく格好良かった」
「そ、そうか?」

珍しく照れたそぶりに顔を上げる。でも私の顔を見た途端隼人が吹き出した。

「何笑ってるの!?」
「だって、おめさんひでえ顔してるぜ」

ここで頬を膨らませてはますますまずい顔になる。
というか忘れていたけど、ここはゴール付近の観客席でとても人が多い。そこに泣きじゃくる女と上位入賞選手の立ち話している。
絶対目立ってる。
軽く彼の腕を叩いた。

「インターハイが終わったら仕返しするから!」
「ん? 今したっていいんだぜ?」
「こんな人が多いところでしません! っていうかさっさと私の腕を離して。君のファンの子達に見られたらどうするの」

すると彼はあっけにとられた顔で首を傾げた。

「どうするって、自慢する?」
「やめて!!」
「わかった。ファン以外に自慢するならいいってことダロ」

言うが早いか、太い腕に捕まった。

「な、何!?」
「本当はお姫様抱っこしたいところだけど、悪ぃ今日はかんべんな」
「そんな事は頼んでない!」

肩を抱かれて、連行された。
観客席から冷やかしの歓声と、女の子の悲鳴が聞こえる。
やばい、どうしよう。
ずりずりと、選手達がいる方向へ引きずられた。
好奇の視線が痛い。

「は、隼人! せめて化粧直してから!!」
は化粧しないでも可愛いから大丈夫。むしろ可愛くしすぎて他のヤツが惚れると困るから直しちゃダメ」
「さっき笑ったくせに」

諦めて自力で歩き出すと、ヤツはニコニコしながら手を繋いできた。
そうして出会う箱根学園自転車競技部の面々。タオルで汗を拭うレギュラーとサポートメンバー達。彼らは目を丸くして私達を見ていた。
反射的に隼人の背中に隠れる。
けれど逃がしてくれず、集まった注目そのままに部員達に私を紹介した。

「オレの彼女」
「「「「ええええー!!??」」」」

怒号に箱学どころか周囲の注目まで集まった。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、穴があったら埋まりたいと本気で考える。ついでに隼人も埋めてやりたい。
しかも怒号が収まるとテントの中に引きずり込まれた。
居並ぶレギュラーメンバー達に顔が引きつりかける。
でもみっともないところを見せ続けるわけにもいかないので、姿勢を正し薄く微笑んだ。
そうして先制パンチを受ける。

「おいおい、年上すぎるんジャナイのお!?」

荒北君の言葉に傷ついた。
ズーンと落ち込んでいると、明るい声音に励まされる。

「へぇー美人ですね。綺麗なお姉さんって感じ!」
「まさか隼人の恋人がこんなに素敵な人だとはな」
「さすがです! 新開さん!」

真波君と東堂君、そして頬が赤い泉田くん。
福富君が頷くと、荒北君が慌てた。

「何もブスだって言ったワケじゃないデショ」
「靖友は素直じゃないな。でもいくら可愛くてもはやらねえよ。オレのだから」
「いらねえよ!!」

掛け合い漫才のような会話に笑いがこみ上げる。
振り向く隼人。

「ん?」
「楽しそうだなって思って」
「そうか」
「そうだよ」

手の甲をつつくと、くすぐったそうな顔をした。
同時に盛大な舌打ちをされる。

「いちゃつくなら余所でやれつぅの!」
「そう言うな。ところでさん、こいつとはどこで知り合ったのですか? どうすればこんな美人と知り合えるのか、この山神東堂に教えていただきたい!」

その質問をはぐらかす。なんと言ってもきっかけは私の迷子だ。
時間を見計らって立ち上がる。

「これ以上は邪魔になりそうなのでお暇します。みなさん、明日もがんばって! 総合優勝を期待しています」

丁寧に頭を下げると、一瞬の空白の後怒号が響いた。

「……これが現代に蘇った妖精!」
「ホントだったのかヨ」

口々にかけられる言葉に小首を傾げ、隼人の腕に触れた。

「じゃあ隼人もがんばってね」
「今日は宿だろ?」
「うん、多分隼人達が泊まってるところとそう遠くないと思う。あとでメールするね」

そうして宿に戻った。
明日は最終日、真のインターハイ覇者が決まる。