真っ暗な空にコンクリート造りの無骨な建物。宿泊施設の玄関前には箱根学園自転車部一同様という看板が出ていた。
インターハイ二日目の夜。
私は柱の陰から人々が出入りするのをじっと見つめていた。
携帯を開いてメールを確認する。
隼人からどうしても会いたいと連絡が来た。来てくれないなら私の宿まで来ると言われ、試合中の選手にそんなことをさせるわけにもいかず出向いてきたけれど……。宿を訪ねる勇気はない。
周囲を伺うために柱から顔を出し、玄関口を凝視した。その時背後から彼の声がかかる。
「よっ」
「きゃあああ!?」
私の叫び声に背後から腕が回る。くるりと身体を半回転させられて、筋肉質の腕に抱きとめられた。ふわりと彼の匂いに包まれる。でも動揺を隠せず罵倒してしまう。
「なんで驚かすの? バカっ」
「おめさんこそどうしてこんな場所に? 普通に入ってくればいいだろ」
「だって……恥ずかしかったんだもん」
やや目をそらし、くちびるをすぼめる。頬に熱が集まって熱い。
知らない人ばかりの、しかも高校生の部活が寝泊まりしている宿に一人で入り込むなんてできない。昼間、「彼女」なんて言われたせいで箱学の人達には顔がバレてるだろうし。
口の中で言い訳をしていると、一際強く抱きしめられた。さらに髪に鼻先を強く押しつけられる。
「可愛いな」
「何言ってるの……バカじゃない」
「いやァ可愛いだろ。良い匂いするし」
なんだか鼻息が荒い気がする。……どうしよう隼人が変態になった!!
可愛い、可愛くないと言い争いをしていると妙な視線を感じた。顔を上げると、福富くんが腕を組み、真面目な顔でこちらを見ている。
「……きゃぁ!?」
隼人を突き飛ばし離れる。すると彼は笑顔で福富くんに手を降った。
「すまないな寿一、少し二人で話してくる」
「かまわない新開、オレは」
数秒の間、山を吹き下ろす様な風が吹く。
「寝る!!」
くるりと背中を向け彼は去った。
今の間は一体? けれど隼人は気にしたそぶりも見せない。そんなことを考えている間にも宿の暗がりに引っ張り込まれる。人影が少ないのはこちらとしても都合がいいので、素直に従った。
そうして宿の壁沿いに設置されているベンチに並んで腰掛ける。
「で?」
「ん?」
呼び出した理由を聞こうと、じっと見つめる。
はぐらかすような応えにくちびるを尖らせると、人差し指でつつかれた。腹が立ったので咥えて甘噛みする。
「君ってホント意味わからない」
「オレとしてはのほうがよくわからないけどな」
「どこが?」
やや顔を傾け、本気で悩む。意味深な微笑みで翻弄する年上キラーのくせに、どこがわからないというのか。けれど彼は指折り挙げる。
「まず、オレがあれだけしょっちゅう会いに行ってたのに、好きだって気づいてくれなかったことだろ」
「うっ……だってほらウサ吉ちゃんとか」
「その前から休みはいつもおめさんと会ってたんだけどなァ」
「さ、最初の頃は自転車競技部がそこまで忙しいって知らなかったし」
確かに出会って以来、最低でも月に一回は会っていた。大半が私の家だったけれど、水族館や映画を見に行ったこともある。
なので職場の箱学卒業生から、自転車競技部は強豪でほとんど休みなく練習にいそしんでいると聞いたときは驚いた。しかし、
「こんな年上を本気で相手してくれると思わなかったんだもん。それに私は自分の気持ちが認められなかったというか……」
「セックスしても認めなかったくらいだもんなァ」
明るい声音に、キッと睨む。
「あれは隼人が悪い!」
「じゃあその分今言うぜ。オレはおめさんが好きだ」
「……ずるい」
ホント年下らしくない。これじゃあ私の方が子供みたい。
「バーカバーカ、私の方が隼人のこと好きだもん。明日も応援してるからね」
「ん、ゴールで待っててくれ」
「うん……がんばってね」
頷くと、頬にゴツゴツとした手が触れる。近づく体温。顎を上げて瞳を閉じて、
「「「「ぎゃああ!?」」」」
人が押し合いへし合いの末崩れた音に、目を見開いた。
「いってえ、どけよ」
「あーあ良いところだったのに」
「アァ!? 誰だ押しやがったの!?」
身体が硬直する。
宿の窓から身を乗り出した箱学生達と目が合った。……あんな場所に大きな窓があったんだ。えっとつまり見られてた?
……。
「きゃあああ!?」
昼間紹介されたレギュラー陣までいるじゃない……恥ずかしい、死にたい。
でも走って逃げるわけにもいかず立ち尽くす。
腹立ち紛れに隼人の頬を抓ると、嬉しそうに抓り返された。すると荒北君が舌打ちをした。
死にたい。
***
そうして恥ずかしい目にあった夜が過ぎ、ついにインターハイ最終日。
箱学生に会わないように熱気溢れる会場を徘徊する。
スタート十五分前の放送に、人混みに紛れてスタート地点に近づく。ピリリとした空気に背筋が伸びた。胸に手を当てると心臓の音が聞こえる。
次いで足下に転がってきたボトルに立ち止まった。腰を屈めて拾い上げると、目がぱっちりした可愛い女の子に頭を下げられた。
「すいません、ありがとうございます」
「いいえ。それにしても……持ちきれるの?」
肩に掛けたサコッシュからはみ出たボトル。これ返しても持ちきれないのではないだろうか? どこかのチームのマネージャーさんなのだろう。手伝いを申し出ると、申し訳なさそうな顔をしながらも頷いた。
彼女が歩く度、大きな胸がたぷんと揺れる。
「……大きさじゃないもん」
「え?」
「ごめんねひとりごと」
誤魔化すためにウィンクすると、少女は笑った。
スタート地点までボトルを運び、手渡すと笑顔でお礼を言われる。可愛い子だなと思いながら頷く。すると背後から声をかけられた。
「寒咲、悪かったな」
振り向けば、そこには見知った顔。
「貴方もしかして?」
「ああ、確か昨日の」
具合が悪くなっていたところを助けてくれた、天然パーマの少年がいた。
「お知り合いなんですか?」
「昨日ちょっとな。寒咲の知り合いだったのか?」
「いえ、今お手伝いしていただいたんです。それより補給を先に」
「そうだな」
「すいません」
寒咲さんがぺこりと頭を下げる。揺れる胸に気を取られながらも、大丈夫と返した。彼らはボトルとサコッシュを持ち上げると、早足に選手達の元へ向かって行った。それにしても……、
「すっごい見てる」
うっかり最前列まで出てきてしまったことで、それはもうはっきりと隼人の姿が見えた。彼はパワーバーを食べながら、私の方を凝視してくる。しばらく無視していたが、諦めて手を降る。すると私に向けて指で銃の形を作り、バキューンポーズをとった。
「私を仕留めてどうする……」
ため息をついた後、『ガ・ン・バ・レ』と口パクで伝えると、大きく頷いた。そんなバカなことをしている間に寒咲さん達が戻ってくる。
ここで見ていてもいいの? と問いかけると肯定の返事。九分前のアナウンスに心臓が高鳴った。胸元でぎゅっと拳を握りしめる。だがその心地よい緊張感に水を差された。
背後からぬっと現れた腕が寒咲さんの肩を掴む。
「かわいいのうキミ、カレシおるの? エエ? おらんの? ほなワシとつき合わんか?」
大きな胸が揺れる。
呉南というロゴが入ったジャージを着た少年が薄気味悪く笑った。咄嗟のことで反応できずにいると、広島弁で芝居がかった口上を述べる。
「このレースワシがトップでゴールしたら──でどうじゃ?」
「……やめなさい」
寒咲さんの大きな胸をジェスチャーで示す彼を押しのけた。二人の間に割って入り、広島少年をにらみ付ける。寒咲さんも負けずに言い返した。
「きれいだけどおっそろしいねえちゃんだのう」
広島少年はニヤリと笑った後、軽々と柵を跳び越えた。
安堵に肩を落とし、選手達を挑発する姿に首を傾げる。
「大丈夫?」
「ええ……ありがとうございます」
彼は何がしたいのだろう。挑発もロードレースの作戦ってこと? 大げさな言動で選手達を翻弄する姿に眉を顰めた。
こうしてインターハイ三日目のスタートが切って落とされる。隼人にとって──三年生にとって最後の大会。
前だけを真っ直ぐ見つめる眼差し。
甘さが一切ない横顔に見惚れた。
選手達の最後のスタートを見送り、寒咲さん達に挨拶をして、ゴール地点富士山に先回りすべく歩き出した。
***
富士山、あざみライン五合目駐車場。
トップ選手が残り四キロ地点を通過したというアナウンスに、気を引き締める。とはいえ、まだゴール地点は記念撮影をする人、お弁当を食べる人等の醸し出すゆるい空気が漂っている。
こちらに向かってくる間に聞いたアナウンスによると箱学は現在一位、スプリントリザルトは隼人が取ったそうだ。
思わずガッツポーズをすると、隣にいたおばさん達が飴をくれた。恥ずかしかったけれど、口の中で転がる甘味が嬉しい。余った分はポケットに入れた。
そうして流れ落ちる汗を拭い、空を見上げた。
悠然と構える富士山と抜けるように青い空。
隼人のインターハイが終わる。
ゴール地点に向けて沿道を登りながら呟いた。
「がんばれ、隼人」
応援の気持ちに嘘はない。けれどそれはほんのり寂しさが混じる。
彼を好きになるほど迷う。
優衣から、何が信じられないわけ? と怒られた。
別に今の気持ちを疑っているわけではない。
隼人は私の事が好き。
私も隼人のことが好き。
だけど、環境が変わっても同じように想ってくれる?
高校を卒業して、大学に入って。社会人になって。彼の世界が益々広がっていくことを、私は体験として知っていた。
だからグルグルと悩んでしまう。
「ダメだ」
両手で頬を叩いた。
けれど今だけは、余計なことを考えず全力で応援する。
ゴールにほど近い場所で選手達を待った。
アナウンスが聞こえる度に全身に緊張が走る。
とどろくような歓声が近づく。
──来た。
身体が震える。
二台のロードバイクがゴールに迫る。
必死の形相でペダルを回す二人の選手。
接戦に胸元で掌を合わせた。
風を切る。
喉が枯れるほど叫んだ。
勝者は──一際大きな歓声が響き渡る。
「ゴォォール!! 三日目最初にゴールラインに到着したのは、176番小野田坂道選手!!」
……負けた。
身体の力が抜けて尻餅をつきかける。
けれど座り込みたいのを我慢して、二人の後ろ姿を瞼に焼き付けた。
隼人のインターハイが終わる。
まだ泣けない。私が泣くわけにはいかない。
だけど彼と出会った日、走れなくなった日、それでも必死に練習をする姿、復活の瞬間、走馬燈の如く思い出してこみ上げる感情を抑えきれなかった。
それは隼人がゴールした瞬間頂点に達して、涙が滂沱として流れ落ちる。
自転車の上で、遠くを睨む眼差しに胸が詰まった。
まだ声はかけられない。
あの世界に私が入り込むべきではない。
私は観客席を離れる。
涙が止まらない。
そして先客と出会う。人気がない、景色が一望できる広場。
青い髪が風に靡く。
「真波君?」
「……あ、新開さんの」
汗に濡れた箱根学園のジャージ。
可愛らしい顔から溢れるのは涙。
そこにはトップ争いを終えたばかりの真波山岳君がいた。
私は何を言えばいいのかわらかず口ごもる。それは彼も同じなのか、涙をジャージで拭って背中を見せた。
立ち去ることもできずに並んで、入道雲が浮かぶ空を眺める。
大きな鳥が視界を過ぎった。
遠くからアナウンスの声が聞こえる。
しばらくそうしていると、真波君が小声で囁いた。
「……オレ、戻ります」
「あ……」
そのまま行かせたくなくて、ポケットを探る。
去りかけた肩に触れた。
「飴、食べる?」
「……新開さんみたいなこと言うんですね」
彼は笑い泣きの顔で受け取ってくれた。
一塊の風が吹く。
背中が見えなくなるのと同時に私も立ち上がる。表彰式、総合優勝は逃したけれど隼人自身はスプリント賞で上がるはず。
途中寄った洗面台で目薬を差して化粧を直した。
そうして表彰式。チーム総北に拍手を送る。
舞う紙吹雪と笑顔に目を細めた。涙を流す玉虫色の髪の少年に、初日の出来事を思い出す。箱学に勝って欲しかった。けれど彼らの勇姿を讃えたい。
次いで山岳賞とスプリント賞の表彰が行われた。
舞台に立つ隼人の姿に、笑みが零れる。
しかし同時に聞こえた女子の黄色い悲鳴に口角が引きつった。
自分でも大人げないとわかってはいるけど、やめられない。私ってこんなにヤキモチ焼きだったんだと呆れた。
そうして隼人がスプリント賞のゼッケンを受け取る。拍手をしようと腕を上げた瞬間、青と白の色彩に腕を掴まれた。
「え!?」
悲鳴を上げなかったのはそれが知っているものだったからだ。
「すいません、これも新開の頼みなのですよ」
「チッめんどくせェこと頼んできやがってよォ」
東堂君と荒北君。
振り向くと福富君までいた。
混乱が収まらないうちに、舞台上で隼人が変なことを言う。
「少し時間を頂けますか?」
丁寧な口調で司会に断りを入れる。
そしてマイクを持ち、私の名前を呼んだ。
「ちょっと!?」
開いた口がふさがらない。しかもがっちり両腕を掴まれて逃げられない。
観客の視線が私に集まった。
当たり前だ。
混乱が収まらない間に、福富君に背中を軽く押され舞台中央に押し出される。
「隼人っ」
「こうでもしねェと逃げるだろ」
小声で抗議すると、彼は片目を閉じた。
ざわめく観客。
しかしその一切を無視して舞台の中央で片膝をついた。
次いで私に手を伸ばす。
まさか、と思った。
だって彼はまだ高校三年生で、私は遙かに年上で。
隼人のことを愛しているから、失う日を思うと胸が張り裂けそうだった。
でも私は彼を縛りたくない。
だから、確信に触れることは言いたくなかったのに。
けれどその感情全て吹き飛ばし、私の目をまっすぐに見た。
「オレと結婚してください」
息が止まる。
時間も止まった。
瞬きすらできない。
けれど彼の甘やかな瞳に映る光は真剣で、冗談なんて一つも言っていないとわかった。
でもダメ。
小声で反論する。
「できるわけないじゃない。あなた来年から大学生なんだよ」
「おめさんがダメだって言うなら卒業後でもいいぜ」
「そういう問題じゃない。それに大学に入ったら今よりたくさんの人と出会えるんだよ。きっと私より好きな人だってできるよ。今決めたら君はきっと後悔する。だから……」
ダメと言いかけて口をつぐむ。
くちびるを痛いほど噛んだ。
私はもう、隼人しか愛せない。だけど彼は違うかもしれない。
醜い嫌な感情に押し流されそうだ。
「それに……隼人が卒業する頃に私がいくつになるかわかってる?」
絞り出すように問いかけると、大きなため息をつかれた。
「だから、今プロポーズしてんだろ。これから誰と出会うとか関係ない。オレはおめさんだけでいい」
射貫くような視線に、頬が熱くなる。
目頭も熱くなって、今にも涙が溢れそうになった。
手を伸ばすと、指先が絡んだ。
掠れそうになる声を絞り出す。
「本当に、本当にいいの? キャンセルできないよ」
「しねえよ」
真剣な声と伝わる熱に、涙が落ちた。
「私で良ければ」
応えると、歓声が舞台を包み込んだ。
抱き上げられ、クルクルと回される。カメラのフラッシュが眩しくて、それ以上に輝くような彼の笑顔を直視できなくて、でも幸せだった。
交わしたキスが甘い。
後日、サイクルタイムという自転車雑誌のインターハイ特集に小さく載った記事を見せられるまでその甘味に酔った。
「なななんで記事になってるのよ!?」
「よく撮れてるよなァ」
「よくない!!!!」
優衣に死ぬほどからかわれた。
仕返しに隼人の胸をポカポカ殴ったら、息が出来ないほど抱きしめられた。恥ずかしいけど、幸せで本当に困る。
照れ隠しにくちびるをブニっと押してやった。
***
エピローグ
荘厳な扉が開き、流れ出す賛美歌に息を呑む。
緊張に顔を強ばらせた父と腕を組み、ドレスに足を取られないようにゆっくり歩いた。
全面ガラス張りのチャペルは眩しいほど明るい。花で彩られた左右の席には私と彼の友人達と親戚が並んでいた。
そして聖壇の前で父の腕を離れ、彼の手を取る。
ベールの向こうに見える真っ白のタキシード。
牧師の朗読と祈祷は耳を通り抜け、高鳴る心臓の音を鎮めるのに精一杯だった。
横目で盗み見る彼の横顔はとても綺麗で、垂れた目尻も厚いくちびるも何もかもが輝いて見える。
そんなことを考えている間にも式は滞りなく進み、牧師の結婚の誓約に彼が、「誓います」と答えた。チャペルに響く美声にうっとりと聞き惚れる。しかしそのせいで、誓約の言葉に答え損ねた。
内心の焦りを隠して深呼吸をした後、
「誓います」
と宣言をした。
すると、隼人が安堵の息をつく。
大学を卒業したばかりだというのにしっかりした彼の姿に、自分が情けなくなった。けれど指輪の交換の時、震えていた手に安心する。
左手に光る指輪に口元が緩んだ。
そして、ゴツゴツして長い指先が私のベールを上げる。
チャペルの明るさに、一瞬視界が奪われた。
光に慣れた瞳に映るのは隼人の真剣な眼差し。
大学四年間で益々精悍になった姿に息を呑んだ。
それと同時に喜びがこみ上げる。
思わずつり上がった口角に、彼も笑みを零した。
顎を上げ、胸元に手を添える。
厚いくちびるが近づき、そして──チャペルは拍手に包まれた。
親戚、友人からのフラワーシャワーは空を埋め尽くすほど色とりどりに綺麗で、隼人に全力でぶつける元箱学レギュラー達の姿に吹き出した。
手を繋いでチャペルを出る。
「、幸せになろうな」
「……うん」
頷き、彼の耳元にくちびるを寄せる。
囁くように愛を告げると、彼は微笑み私の頬にキスを落とした。
end
あとがき